藤森照信の「現代住宅併走」
第30回
まつかわ・ぼっくす
設計/宮脇 檀
自閉の中の開放
文/藤森照信
写真/秋山亮二(宮脇 檀のポートレート除く)
戦後の住宅作家として一時代を築いた宮脇檀は“ボックス・シリーズ”で知られ、この連載でも15年前、「かんの・ぼっくす」を紹介した(『TOTO通信』2000年Vol.3)が、箱の代表といえばやはり<まつかわ・ぼっくす>といっていい。しかし、15年前には取材が難しかった。
少し前、現代美術キュレーターの清水敏男さんと仕事したとき、オフィスは<まつかわ・ぼっくす>に置かれていると聞いて、これ幸いとこのたび訪れた。
まず外観を眺め、“ぼっくす”の名のとおり箱の中に閉じこもる造りであることを確認し、次に1971年という竣工年のことを考えた。この連載で何度も述べてきたように、日本の戦後モダニズム住宅は、ひとつの時期を境に大きく変わる。まず戦後の建築と住宅は社会と外に向かって開くことを旨とし、ピロティや大きな引き戸による開放性を建築的テーマとして清家清の一連の住宅や丹下健三邸(53)などがつくられた。
ところが、磯崎新「中山邸」(64)、原広司「伊藤邸」(67)を口火とし、私と同世代の坂本一成「散田の家」(69)が続き、そしてついに安藤忠雄「住吉の長屋」(76)と伊東豊雄「中野本町の家」(76)の出現によって、自閉的、あるいは内向的住宅が頂点に達する。
背後には、開かれた戦後の市民社会への表現者としての退屈感と、東京オリンピック以後に表立つ高度消費社会への違和感があったが、とにかく、64年から76年までのおよそ10年間に、モダニズムアヴァンギャルドたちは時代と社会の趨勢から切れた。建築の内側に逃げ込んだのである。この時期に切れたか切れなかったかがその後の立場を大きく左右し、切れた一部の者のみが今も表現者としては生き残っている。
というような観察を建築史家としてしてきたのだが、宮脇檀については“切れたか切れなかったか”の識別対象にはしてこなかった。
このたび初めて対象にしてみると、<まつかわ・ぼっくす>は間違いなく自閉し内向している。71年竣工ということは、自閉の季節のまっただなかで自閉した。開口部が裾壁を突き出した“穴”によってつくられ、中庭への唯一の開口部も軒はギリギリ低く抑えられ、2階の寝室に至っては視線より低い小窓が開くのみ。
にもかかわらずこの家に始まる宮脇のボックス・シリーズの内向性に私が気づかなかったのは、実物を知らなかったことに加え、図面と写真ではその点が抑えられていたからだ。どこからも外の見えない「中山邸」「伊藤邸」「住吉の長屋」「中野本町の家」の4作のような、住み心地を無視した前衛的試みを宮脇はしていない。
私を含め安藤、伊東など野武士世代が一世代上の宮脇を低めに見たのは、住み心地や機能性を無視するほどの前衛性、別の言葉でいえば“主張の純度”を欠いていたからだった。