山口邸の設計には、内藤多仲、木子七郎、今井兼次の3人がかかわったことがわかっている。
 内藤は、戦前には耐震壁構造の発明者として知られ、戦後は東京タワーの設計者としてあまりに名高く、この建物のできた昭和2(1927)年には早稲田の教授。木子七郎は東大を出て「愛媛県庁舎」(29)、「新潟県庁舎本館」(32)、「旧久松伯爵本邸」(22)などの大作・名作を手がけた知る人ぞ知る建築家。今井は、戦後、早稲田の教授として知られるが、当時は助手で、表現主義の名作「早稲田大学図書館」(25)を仕上げた直後。
 この仕事の要の位置に立つ内藤と山口の関係については、
「祖父は、学生時代から内藤先生のゼミに出ていた」
 というのが山口家の伝えである。マサカと思う伝えだが、こんな思いもよらぬ話が捏造されるわけがなく、本当にちがいない。
 内藤のサインが残る設計図を見ると、いかにも“構造的”なのに驚く。
 たとえば、平面は長方形に納まり、壁位置がきれいに通り、耐震上これくらいいい平面はない。
 もっと注目すべきは構造形式で、壁構造。
 震災復興期だから鉄筋コンクリート造は当然だが、当時の鉄筋コンクリート造はビルはむろん住宅もラーメン構造がほとんどだった。壁構造の住宅が出現するのは戦後のこと。
 “ラーメン”ではなく“壁”にしたのには内藤の強い想いがあったにちがいない。震災復興にあたり“ラーメン”で行くか“壁”にするか、正確にいうと、ラーメンの柱・梁とその接合部を強化する方向で行くか、ラーメンの中に耐震壁を付加するかで内田祥三と内藤多仲のあいだに対立があり、ビルの仮想設計によって内藤が勝ったばかりだった。
 内藤の厚い壁への想いは熱かった。そこで、耐震壁だけでは止まらず、すべて壁による構造を、ビルは無理としても住宅で試みたかったのではあるまいか。ラーメンでなく壁にするとコストは倍増するから、めったな人には頼めない。
 こんな推測をするのは、この時期、鉄筋コンクリート壁構造の住宅なんてのを内藤が実行したのは、自分の家(26)と山口邸のふたつだからだ。ふたりの仲は深かった。


>> 「旧山口萬吉邸」の平面図を見る

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