特集5/独学の建築家

「家づくりの会」との出会い

——83年に独立。でも仕事が天から降ってくることはないですよね。

川口 有力なコネクションがない、実績もない。とてもつらかった。図面の下請け仕事で生計を立てていましたが、スタッフには下請け仕事は絶対にさせないと誓い、貫きました。正直に言いますとたった一度だけ手伝ってもらったことがあり、今でも後悔しています。

——相変わらず悶々と日々を過ごしていたわけですか。

川口 そうです。でも、そのときに「水清ければ魚住まず」という言葉を聞き、なるほどそういうこともあるかと気持ちが楽になったことがあります。そうこうするうちに「家づくりの会」を知りました。

——83年に泉幸甫さんをはじめ、住宅設計をライフワークとする若い建築家が結成した集まりですね。

川口『モダンリビング』(ハースト婦人画報社)のお知らせ欄を見て応募し、面接を受け、メンバーになりました。現在は45人くらいになりましたが、当時は10人程度で、組織というよりも仲間という感じでした。みな只者ではなかった。仕事もお金もないが、時間は余るほどあり、あふれるような熱情をもち、毎晩、安酒場で飲んでは議論をしていました。

——「家づくりの会」への入会が大きな転機になったということですか。

川口 学習の方向性がみえてきて、私にとってはいわば大学院のようなものでした。木材をはじめ、じつにたくさんのことを教えられたし、建築はずっと学びつづけないといけない、社会が変わるのだから建築も変わらないといけないという当然のことにも、あらためて気づかされました。

——同志を得たのも大きかったのでしょうか。

川口 かつて新宿ホワイトハウスに吉村益信、武満徹、磯崎新などが集まっていたり、豊島区のトキワ荘には藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫などが集まっていた。同じような志をもった人が結集すると、孤立して活動していたときには出てこない能力が活性化されて高まっていくことがある。「家づくりの会」にもそうした状況が生まれていました。

——その輪に早い時期に入れたことは幸運でしたね。

川口「家づくりの会」に救われたといっても過言ではありません。それともうひとり、恩人がいます。写真家の小林浩志さん。編集者から独学で写真に転向した方で、独立前から知り合い、私の設計した建築のほぼすべてを撮影していただいています。彼以外に撮影を依頼したことはありません。写真に撮る際にどこが具合が悪く、どうすればよりよくなるかを細かく指摘してくださいました。ほかの設計者の建築をたくさん見ておられる方の指摘はとても貴重で、成長の糧になりました。

>>「映水庵」
>>「礫明 第一期」の図面を見る

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