
——独立後、河内さんは、師匠である難波さんや「箱の家」と、どういった距離感で仕事をされていますか。
- 河内 僕は、もともと30歳で辞めると決めていて、たまたま在籍中の3年間でRC造、鉄骨造、木造をひととおり経験できましたので、予定どおり30歳で退所しました。独立後、意図的に距離をとろうと思ったことはありませんが、独立した先輩で、ほぼ「箱の家」と同じものをつくっている方がいましたが、自分は少し違う方向性で行こうとは考えました。先輩の遠藤政樹さんも、「箱の家」とは異なる方向性に進んでいるし、僕もどちらかといえば、そちら側の道を進もうと思っていました。
- 河内 あの家を、オープンハウスでは「これは『箱の家』だ」と言う人もいました。難波さんは同意しないかもしれませんが、工場でつくった断熱パネルを用いるとか、黒い外壁で太陽熱を集熱して屋上の雪を溶かすなど、考え方としては「箱の家」を引き継ぐことも考えていたのですが、形は少し違うものを目指していたかもしれません。
——「箱の家」といえば、環境性能の高さも特徴ですが、独立後もその点は継承されていますか。
- 河内 「箱の家」で学んだ断熱のスペックや日射制御については、基本的には理解していますが、なかなか設計には生かせていません。先日、「アミダハウス」の図面を見た難波さんに、断熱性能が確保できていないことや、東西が開放的なために夏期の朝夕の日射に対して無防備で、霧除け庇のない東西の窓は、梅雨時には通風機能を十分に発揮できない、という旨のご指摘を受けました。
- 難波 けしからんでしょ(笑)。
- 河内 西側に大きくそびえる富士山に向かう視線を確保したかったのです。「箱の家」で標準装備している環境装置もなかなか引き継げていないし、課題だとは思っています。
- 難波
「箱の家」は標準化を徹底していますから、引き継ごうと思ったら「箱の家」そのものになってしまいます。所員が独立後に、「箱の家」のコンセプトを引き継ぎながら、それを展開させるのは難しいのかもしれません。その苦悶がうかがえます(笑)。
——標準化や合理性への志向など、難波さんの思想には、師にあたる池辺陽さんから続く系譜があるかと思いますが、その点についてはどのように考えられていますか。
- 河内 まだ自分をその系譜の上にのせて考えることはできていません。将来的に、系譜の一員としてとらえていただけたら、とは思います。難波さんが95年に「箱の家」のシリーズを始めるのは、実務として20年ほどの経験を積まれてからでしたから、僕ももう少し経験を積んだら、何か系譜にのれるようなシリーズを始めるかもしれません。僕は「箱の家」は事業性もすぐれていると思っています。難波さんのところには、2週間に一度くらい、飛び込みでお施主さんが来るんですよ。内側の設計の合理性だけでなく、「箱の家」は外に向けたPRとしても効果的です。僕もいつか定番の型をつくって、連続させていくということも考えたいと思っています。
- 難波 身体的な寸法や、生産上の合理性など、「箱の家」の基本コンセプトの多くは、僕も池辺さんから教わったことの延長で考えていますから、「箱の家」の担当者は、そのつながりのなかにはいるわけです。ただ、「箱の家」のようなシリーズは、自分の意志で継続できるものでもないからね。まずは自分でコンセプトを発信してから、それを建てたいというお施主さんが現れないと。僕の場合、発信しすぎて、仕事が「箱の家」ばっかりに(笑)。今では、住宅だけでなく、工場でも幼稚園でも図書館でも、「箱の家」の延長で考えてしまいます。その傾向を決定づけたのは、ノーマン・フォスターの「セインズベリー視覚美術センター」(78)。大きな箱の中に、バーコードのように、食堂、教室、美術館、カフェ、学生ホールが等価に並んでいます。設備などは箱を構成する2.4mほどの幅のスキンにすべて入っている。これを見て、「これでいいんだよな、すべての建築は『箱』でよい」という考えに結びつきました。






