特集4/対談

「アミダハウス」をめぐる師弟談話

——「アミダハウス」を実際にご覧になった感想はいかがですか。河内さんは、ル・コルビュジエがドミノシステムによって示した「自由な平面」と「自由な立面」を受けて、「自由な断面」という言葉で、この住宅を説明していますね。

難波 ドミノシステムと対比させて説明するというのは、意図はわかるが、正直恐れ多いと思いましたね(笑)。ドミノには、工業化部品をインフィルとしてはめ込むための、スケルトン・システムの構想という、工業生産化住宅のプロトタイプという側面もあったのだから、空間性だけで対比しては手落ちだろう。ドミノをもち出さなくても、シンプルな器の中に、こういった複雑な空間があるというのは、それだけですごく魅力的だから。
河内 確かにドミノをべースにするのは言いすぎたかもしれませんが、普通の木造2階建ての家では、床の分断が非常に強い、と日頃から感じていたので、そのことについて考えたいと思いました。「箱の家」のように吹抜けがあれば、床による分断は薄まっていきますが、一方で床面積というのはお施主さんにとって利益なわけだから、吹抜けばかりをつくって床面積をむげに減らすわけにはいきません。床による空間の分断をやわらげながら、床面積を減らさないようにするために、少しずつスライドさせながら積み上げていく、という手法を考えました。
難波 初期の近代建築を見ると、コルビュジエなどのフラットなものをつくる流れとは別に、空間をポコポコとつなげていく、アドルフ・ロースが唱えたラウムプランもありますよね。その床の話、つまり河内君の言う「自由な断面」は、いわばラウムプランだろう。だから、あえて絶賛していえば、この住宅は、「近代建築のふたつの流れを統合する試み」ともいえるかもしれないが、やはりそれはほめすぎでしょう(笑)。
河内 確かに、それはほめすぎですね。逆にこわいです(笑)。ただ、普通の住宅地で設計をするとき、なかなかベースがないので、できれば建築の歴史をベースにした展開をしていきたいと思っています。
難波 そういうことであれば、この家のよさを援護する意味で、もうひとつコメントするなら、この「アミダハウス」は〈住宅〉なのだが、空間構成や視線の制御といった意味で、〈建築〉的な方法を〈住宅〉に当てはめる試み、ととらえてはどうだろうか。それは〈住宅〉と〈建築〉を分けて考える一部の建築観に対する挑戦であり、今の時代状況だからこそ生まれているのかもしれない。

——これまでの河内さんの作品と比べて「アミダハウス」はどのような印象ですか。

難波 今までに見た住宅のなかでは、一番よくできていると思います。密度が上がってきていますね。
河内 僕自身にとっても、この住宅は重要な作品です。建築は表層だけではダメで、中身に工夫がなければ、何かをやったとは言いづらいのですが、今回は自分の納得のいく内部空間がつくれたと思っています。
難波 最近は、コンペや賞の審査のときに、若い人が設計した建物を見る機会がけっこうあるのですが、総じて「埃っぽい」という印象をもっていました。同じことを竹原義二さんも言っていましたね。もちろん、実際に埃があるということではなくて、うまく言えませんが、細かく考えていない部分とか、明らかに力が入っていない部分が垣間見えると、埃っぽく感じてしまう。白く塗り込められた建物はその典型です。白く塗ることでいろいろと覆い隠そうという発想は埃っぽい。じつは、これまで河内君が設計した建物も、埃っぽいと思っていましたが、この住宅ではそれを感じなかった。
河内 ありがとうございます。今の難波さんの話は、僕にとって新鮮です。今のような空間の質の話は、事務所ではほとんどしませんでしたよね。フレキシブルボードの性能やコストの話はしていましたが、それによってどういう質の空間ができるか、という話は、ほとんど聞いたことがありません。
難波 ジェイムス・スターリングという建築家は、意匠的に凝った形や色を使いますが、そんな彼でも、建築については機能や性能についてしか話さなかった。それはイギリスの社会風土によるところもあるが、彼はいっさい、形についてはしゃべらない。建築業界には、ロマン主義に対して一定の距離を置く慣習があって、僕の師匠の池辺陽さんも、所員がそういう話をしたら怒り狂っていましたよ。「通りすぎる影のような……」とか、わけのわからないことを言う設計者がいたら殴ってやろうかと思いますよ(笑)。
河内 そういうポエティックな感情は、本当はみんな好きなんだと思います。でも、それをストレートに表現しては、難波さんの言うように間の抜けた感じになってしまうから、表現が難しい。
難波 言わなければいいんですよ。建築の質は、その建築を使っている人、住宅に住んでいる人が、日常のなかで感じればよいこと。設計者が自ら言う必要はない。もちろん、叙情的なことが設計の主題でもよいけれども、そういうことをいちいち言うな、と思う。誰もがフォームギバーだと思っているコルビュジエは、晩年のインタビューによると、ロマン主義に対する罪悪感があったらしい。僕はそれを聞いたとき、コルビュジエですらそうなのだから、僕たちがロマン主義をかざすのはおこがましい、と強く感じました。建築の美学は、つくり手ではなく、体験する人が語るべきだと思っています。

——この家を体験されたうえでは、いかがでしょう。

難波「箱の家」よりずっとフォトジェニックですよね。
河内「フォトジェニック」という言葉は、難波さんの場合、否定的な意味で使っていますよね(笑)。
難波 あえてポエティックにまとめると、この家の印象は、「竹下通りにはいないような、ちょっとおしゃれをしたさわやかな女の子」でしょうか。
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