
——野津原とアグリカルチャーパークでは、実施設計を終えた段階で希望されて現場に行かれたのですか。
- 福島 そうではありません。たぶん人手がなかったからだと思います。でも、もしかすると当時チームに溶け込む傾向があった僕の性格を伊東さんが見ぬいたうえで、あえて年長者を差し置いてお前が現場に行けと指名されたのかもしれません。現場のことは何もわかっていなかったのですが、それも承知のうえでそうされたのかと。
- 伊東 彼の性格を見きわめてというのはなかったな。なにしろ常時、自転車操業だから、とてもそんな余裕はない(笑)。ともかくお前が行ってこいと。でも、それが菊竹流なんですよ。私は現場にあまり出ませんでしたが、菊竹事務所では2年目になると現場に出されるのが慣例だった。
——2年目では技術的なこともよくわからないだろうし、よく務まりましたね。
- 伊東 ノイローゼになったり、胃潰瘍になったりした人もいました。なにしろ菊竹さんは現場に入ってからでも大きな変更を厭わなかったから、毎日が闘争のようなものだったはずです。スキーの初心者をいきなり上まで連れて行って突き落とすようなものでしょうか。それが上達を早める秘訣ともいえますから。うちの事務所はそこまでではないですよ。
- 福島 いえいえ、それはなかなかきびしかったですよ(笑)。事務所とはまた違った難しさがありました。現場監理では経験が乏しいためにここを直したいという意見を通せないことがしばしばあって、僕たちスタッフとしては伊東さんが現場に来たときに、施工者にここを直したいと言ってもらえるとありがたいのですが、伊東さんは「これでよい、これありきで次を考えなさい」と言われることがほとんどでした。それがとても印象に残っています。
- 伊東 私は細かいことが気にならないタイプだし、多少の不良は現場の出来事だからしかたがないと思うのです。その建築で考えていたことが大きなところでくずされず、そのままできていればよくて、現場でもそれしか見ませんね。
——そろそろ独立と思われたきっかけはなんですか。
- 福島 オランダに建つオフィスの仕事で、1年間、オランダに行かせてもらったことが直接のきっかけになりました。オランダ人と仕事をし、話をしたりしていると、伊東さんから学んだ、個人性と社会性の両者をつなげていくコツみたいなものが日本にいたときよりずっとよく実感できたように思いました。つたない英語でコミュニケーションをとっていたからこそ、逆にそれが可能になったのかもしれません。所内でも英語ができない部類に入る僕がなぜと思いましたが、行かせてもらって感謝しています。
- 伊東 あのときもとくに意図して派遣したのではなくて、ドタバタのやりくりのなかでだったかと思いますね。
- 福島 そうはいわれても、若い所員に意図的に機会を与えて所内の活性化を図ろうとされていたと思います。あいつが現場あるいは海外であれだけがんばっているのだから、ベテランも負けてられないというような、競争心を自然に育てる環境をつくっていたのではないでしょうか。
——9年間で、とてもよいキャリアを積まれたわけですね。
- 福島 振り返ってみると、本当にそうですね。二度と戻りたくないですが(笑)。学生時代に思っていた伊東事務所の大きな魅力のひとつが、卒業生に建築家として活躍する人が多いことでした。事務所に入って、キャリアを重ねてみて、その秘密の一端がわかったように思います。
- 伊東 結果としてでしょうが、独立して個人事務所を営んでいくよいトレーニングの場、予備校的な役割を果たしてきたかもしれません。
——石田敏明さん、妹島和世さん、飯村和道さんの世代から始まって、ずいぶん大勢の方々が独立され、活躍されていますね。
- 伊東 独立後の第一作が話題になるケースはたくさんあるけれども、その後に継続して自分の個性を打ち出していくのはとても難しい。うちの事務所のOBはその点ではがんばっている人が多くて、うれしいことです。困るのは、コンペティションの審査員を務めたとき、事務所のOBが複数名、最終インタビューに残っていたりする場合ですね。うれしいともいえますが、推すこともできないので、困惑します。
——そのなかで福島さんのことはどう評されますか。
- 伊東 律儀な人。すがすがしく気持ちがよい人。ストレート一本で、あまりカーブは投げない。






