かねおりの屋根の下に座ると、まず空間の形状に誘われて外を眺め、しばらくして、かねおりの背中側というか斜めの面に目をやる。
垂木の並びが見せ場になっているにちがいないとの予想を裏切り、斜めの面には花の絵がはまっている。設計当初からの生田の依頼だという。
そう、若き日の生田は、堀辰雄、立原道造、女性画家などからなる戦前の“軽井沢グループ”と深い縁があった。
東大出の建築家にして昭和10年代を代表する青春抒情派詩人でもあった立原道造と生田は、加えるなら丹下健三も、学生時代から親しく、建築と世界のあり方について議論し手紙を交わし、昭和10年代というきびしい時代のなかを通過していく。
そして丹下は、時代と国と社会の動向に敏感に反応する建築家として戦中戦後を生きていくことになるのは誰もが知るとおりだが、立原と生田はどうしたか。
立原は、敗戦の6年前に病没した。
生田が戦時下、丹下とは対照的に時流と距離を置いたのは、旧制高校時代から知己を得ていた哲学者の三木清の影響が大きかったにちがいない。
「昭和六年の初冬。その時私は高等学校の生徒であった……彼は前年の二月まで、共産党シンパ事件で豊多摩刑務所に拘置されていたが、その疲れもなく、若々しく元気であった。以後死ぬまで約15年の間、年に一度か二度、多くて三度くらい会ったり話したりする機会があった。年齢の差や私の性格は、二人の間の話を談論風発といった形にすることはなかった。折々短く途切れたり、沈黙の休止のあとポツンポツンと話される言葉は、却って深く印象づけられた」
このようにして始まる三木清の回想のなかで、生田は、三木邸について書斎だけに着目して述べる。
たとえば、
「家の前を通ると、決まって二階の書斎から灯が漏れ」、「暑い時でも寒い時でも自分の書斎が一番いいとも言っていた」、「(死を知って)取るものもとりあえずお宅にとんで行った。一階の客間に東畑精一さんや谷川徹三さんが集まっておられた。私は一人で、まだ登ったことがない(書斎のある)二階への階段を登りかけた。二階には……」
三木だけでなく、立原が相手でも回想は書斎を軸にまわる。立原の幻の自邸「ヒヤシンスハウス」については「書斎のイメージでもあった」とし、また立原の実家の(納屋と呼ばれた)立原の個室をひとつの書斎として共感をにじませながらくわしく描写している。
「牟礼の家」の取材を機に、生田の建築家としての生き方と資質をなんとか言語化しようと思い、あれこれ生田の遺文を読んだり経歴を振り返るなかで、浮かび上がってきたのが、
“文人建築家”
というやや古風な言い方だった。それをなんとか客観化しようと、以上のように生田の“書斎への傾斜”を綴った。
文人とは、江戸中期以後、明の影響で成立した概念で、実例としては、与謝蕪村、頼山陽、田能村竹田のように、組織には属さず、国と社会の大勢からは身を引き、しかしその動向を見つめながら、文や絵の領分に、それも職業というより趣味のようにして生きる人士を指す。
もし立原が戦後まで長生きしたとしても、文人的建築家の道しかなかったと思うし、生田は、東大教授ではあったが、文人的なデザイナーとして身を処している。
書斎に座し、図面を引き、倦めば窓の外の光景に目をやり……。東アジアにおける建築家のひとつの理想形。





