藤森照信の「現代住宅併走」
第27回
かねおりの家3足利の家
設計/生田勉
2方向に流れ出る視線
文/藤森照信
写真/秋山亮二
建築家のなかには住宅作家と呼ばれる人たちがいて、系譜をたどれば、藤井厚二(1888〜1938)と山本拙郎(1891〜1944)を始点に、土浦亀城(1897〜1996)、吉村順三(1908〜97)、清家清(1918〜2005)、池辺陽(1920〜79)、篠原一男(1925〜2006)と途切れなく続く。
戦後活躍した最初の世代としては吉村、清家、池辺の3人がよく知られているが、生田勉(1912〜80)を忘れるわけにはいかない。
2014年新春号で生田の自邸「牟礼の家」を取り上げたとき、娘婿で建築家の山下泉さんに「かねおりの家」の現状についてたずねた。生田の代表作といえばデビュー作の「栗の木のある家」(1956)と「かねおりの家」のふたつで、前者は見ているが、後者は未見だったからだ。
「もうありません。でも、『足利の家』なら見ることができます」
名作「かねおりの家」完成に先立ち、生田自身が「かねおりの家を習志野の須藤教授の書斎や足利の家の居間で試みておいた」と書いているその居間は「足利の家」の名で発表され、現存し、訪れることができるという。
生田勉の娘の翠子さんに案内され、まず内外をざっと見たが、外観は肝心のかねおり屋根がストレートに表現されておらず残念。
見所はかねおりの中。かねおりという独特の室内空間は、中に入った人の視線を自ずとかねおりの浮いたほうへと導く。室内から室外へと斜めに差し出す軒の先には庭が広がる。
室内空間を軒でグッと抑えてから庭へと開放するやり方は「栗の木のある家」もまったく同じで、ライトと共通する。生田は、戦後におけるライトの再発見者でもあった。
ライトとの違いもあり、かねおり屋根の妻壁に大きなガラス窓を開ける。それも上部を三角窓にして。
その結果、かねおり屋根の下に包まれたひとつの空間は、“軒先側から庭へ”と“妻側から庭へ”の二方向に流れ出ることになる。
「牟礼の家」でも見せた生田空間の二方向流動性で、日本では誰が最初に? レーモンドか。世界では誰が? ミースか。でも、日本の伝統的座敷の定番でもあり、あるいは“日本の座敷”→“ライト”→“ミース”と伝わったものか、今後の課題。





