
「和」のルーツ
京都に来て
- 伏見 そして京都では、「若王子(にゃくおうじ)の家」の増改築という、まさに日本的な仕事をすることになるわけですね。
- 横内 仕事がなかった僕に、義父の梅原猛が自宅の増改築を依頼してくれました。梅原邸は明治中期の数寄屋建築であるうえ、施工は中村外二(そとじ)工務店。きわめて日本的な仕事をすることになったのです。こうなったらしっかり学ぶしかない。既存家屋を細かく実測するとともに、中村外二工務店の職人たちからもいろいろなことを教わりました。最初に、こういった最高峰ともいえる職人たちと仕事ができたのは、その後の設計にとっても大きな意味がありました。いつも中村外二工務店と仕事ができるわけではありませんから、コストを抑えたなかでも、どうやったらあの品質まで高めることができるだろうか、という目標がはっきりしたのです。外二さんに「材料の高い安いで良し悪しが決まるのではない。安い材料でも正しい扱い方をすればよいものになる」と教わりました。じつは、僕が設計した住宅は高いのではないか、とよく言われるのですが、坪100万円もいかないことが多いのです。それに豪邸ばかりをやっているわけではありません。ローコストの住宅を設計するときでも、いつも「若王子の家」での体験が頭のどこかにあるので、あの品質にできるだけ近づけるように努めています。
- 伏見 数寄屋の仕事をする環境のなかでも、増築部は伝統的な造りばかりではありませんよね。また、その後の設計でもいわゆる数寄屋の方向には進んでいません。そこに、日本を意識しながらも「和風」ではない、横内さんならではの「和」の考え方があると思うのですが。
- 横内
「若王子の家」の増改築ができた後、東京の友人たちには「こんな和風をつくっていたら、建築家として成功しない」と言われました。ポストモダンの全盛からバブル崩壊に至り、日本の文化的評価が下がっているときでした。一方で、京都の数寄屋に習熟した方々からも、「こんなことをやってはだめだ」と言われました。数寄屋建築では最高の材料を使うべき天井に、大きな天窓をあけましたから(笑)。先ほども話したように、地域主義のためには日本をベースにしながら地に足のついた設計をしたかったのですが、はたして伝統工芸のような「和風」でいいのだろうか、という想いも同時にあったのです。モダニズムのいいところや、現代の生活に合わせるためには、「和風」だけでは対応できない。いくつかの概念を足し合わせて新しいものをつくろうとすることが「和」だという感覚は、この頃からありました。
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