特集1/インタビュー

自然とのつながり
庭と日本人の心

横内 また、「和」を考えたときに、いろいろな文化が加わりながらも捨ててはいけないもののなかには、日本の場合、自然とのつながりがあるのではないかと思います。部分的に見たら「和」の要素はないけれど、全体的に見て「和」を感じるとき、僕らが「和」だと思っているのは自然とのつながりではないでしょうか。それは、建物単体の素材感、内外の関係、あるいは景色の切り取り方などのこと。そこになぜ日本人が「和」を見出すかというと、何か特定の宗教を信じていなくとも、自然崇拝が無意識のなかにあるからではないかと思うんです。自然の命に慈しみと美しさを感じるし、苔の生えた石を見ると「いいな」と思う、といった具合に。都市化が進んで生活スタイルが変わったとしても、日本人の根っこにはそうした感覚が残っていて、そこに働きかけるのが「和」なのではないか、とも思います。
伏見 建築と自然とのつながりを媒介するものはいろいろとあるのだと思いますが、横内さんの住宅ではやはり庭がきわめて重要な役割を担っているように見えます。庭へ意識が向きはじめたのはいつ頃ですか。
横内 僕は大学への就職(当時・京都芸術短期大学専任講師)を機に京都に来ましたが、最初は設計の仕事はあまりなく、大学業務以外は自由な時間がけっこうありました。京都に来たからには伝統的な「和」の建築も学びたいと思っていましたから、あき時間を使って、地図にのっている何百もの寺院を、ほとんど見てまわりました。しばらく見ていくうちに、ふと思ったんですよ。京都には、いい建築がない(笑)。いや、そう言うと語弊がありますが、奈良に比べると京都の建築はあまり目立たないんですね。なぜだろうか。それはいい庭があるからだと思いました。むしろ建築は庭の一部としてつくられているようにすら見えました。あるいは、庭を見るために建築をつくっているようにも思えました。とにかく庭が主になっている。だから、蓮華寺などの京の寺院は美しいのだと気づきました。それ以来、庭の魅力に引き込まれていきましたね。日本建築のすばらしさは、庭と一体化しているところにあるのだ、と考えるようになりました。
伏見 逆に考えると奈良の建築からは、今まで話してきた「和」の印象はあまり受けないですね。もちろん長谷寺などの山と一体化したような建築もありますが、東大寺や興福寺などの大きな伽藍のなかには、巨大な建築が堂々と立ち並んでいますから、自然とのつながりは顕著ではないかもしれません。言語上、「和」の由来は「大和」でしょうから、言葉の印象は不思議なものです。
横内 ちなみに庭には、本能に訴えかける非日常という側面もあると思います。人間も動物ですから、野性的な本能をもっていると思うのです。幼い頃は誰もが野性をもっているのに、現代社会で生きていくために原初的な本能を隠蔽することを学習していく。そうすることで、人は社会に適応できるのですが、それだけでは幸せにはなれないと思います。やはり本能も必要。つまり人は理性と野性の両方を求めるわけですが、住宅のなかの庭を大切にしているのは、そうした野性の本能への働きかけを意識しているからでもあります。
伏見 なるほど。そうすると、もしかしたら歴史を大局的にみたときに、建築が理性の産物として和様化して洗練が進むのであれば、一方で野性的なものも同時に求めた結果として京都の庭がすばらしく発展した、ということもあるのかもしれませんね。
横内 いつの時代も、人間はどこかでバランスを求める生き物だと思いますよ。


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