特集/座談会

「ここに私がいる」

北山 80年代あたりまでは「家族」がまだありましたが、今は確たる家族像がなくなっていることも大きく影響していると思います。今は子どもがいない家庭も多いですしね。また、人間の関係がもっと切断されているように思います。昔はもっと濃密な人間関係があり、家をもつことには社会と接続する道具をもつ意味合いもありました。
長谷川逸子 本当にそうですね。今の家庭では、客が来るという意識が薄いように思います。東京で設計している最中の住宅では、個室はたくさんつくるのに、リビングやダイニングは家族だけのものでいい、広い部屋はこわいと言うのです。外部の人とのコミュニケーションがないのですね。一方で、神戸の芦屋で設計している若い世帯の住宅では、子どもも含めて来客が多いので大広間がほしいという要望があり、昔と通ずるところもあるなと思っていますが。ハウスメーカーの商品住宅のプランでも、リビングは以前よりも狭くなっていて、趣味部屋などが多くなっているようです。人との交流が、家の中ではなく街中の店などで行われるようになっている。外部に向かって開いた家をつくっているように見えて、じつは社会に閉じた家が多いですね。
北山 当時は社会に対して、「ここに私がいるんだ」と刻印するように住宅ができていたように思います。
長谷川 豪 先日たまたま「塔の家」(66)にうかがう機会がありました。建築の形態や構成というよりも、東孝光さんの「ここに生きるんだ」という、強い意思を感じました。今も娘さんの利恵さんが住みこなされていて、とてもよい時間がここに流れてきたことが、初めて訪問した人間にも了解される空間でした。住宅を建てることはこの場所に生きるという強い意思表明の機会なのだな、とあらためて気づかされましたね。
北山 当時は建築家も、それ以前の建築家とは違って、日本独自の文化ができつつあることに意識的でした。吉村順三さんや広瀬鎌二さんはケーススタディハウスなど海外の動きに影響を受け、日本に翻訳した役割もあったと思います。それに対して、60年代70年代に住宅をつくりはじめた建築家には、オリジナルの日本の文化をつくるという意識が高かったのでしょう。それは、ほかの領域にもつながります。
長谷川逸子 画家の高松次郎さんには、あるプロジェクトで壁面に絵を描いていただいたことがあるのですが、芸術家などから受ける刺激も大きかったですね。倉俣史朗さん(インテリアデザイナー)ともひんぱんに会っていて、実作ができると呼んでくれて見にいったりして。太田省吾さん(劇作家、演出家)とか、さまざまな人が近くにいました。今はどうですか。
長谷川 豪 人にもよると思いますが、交流はあまり多くないかもしれません。展覧会やシンポジウムなどで一緒になるとその後に飲みにいったりしますし、決して仲が悪いわけではないのですが、建築の裾野が広がって個々の活動範囲が重なりにくくなっているかもしれません。野武士の時代の建築家のように、まず若手建築家は住宅を設計して評価されて、だんだんと大きな建築物を手がけていくというような、わかりやすい状況ではなくなってきていると思います。僕はたまたま小住宅からキャリアを始めましたが、美術館で大規模なインスタレーションをしたり、中国で事務所を始めたり、地方の公共建築からスタートしたり、僕たちの世代はそれぞれ異なるフィールドで活動を始めているようなところがあります。このような状況はひと昔前にはなかったですよね。
北山 社会がそれだけシンプルだったといえるでしょう。
長谷川逸子 確かに、今の若い建築家はいろんなところで活動しているように見えますね。以前は、同じようなステップをみんなで並行して踏んでいく感じがありました。私が公共建築の「湘南台文化センター」(90)を設計すると、次の年に伊東豊雄さんのところに公共建築の仕事が依頼される、というようなことが続きましたね。湘南台コンペの後、安藤忠雄さんと伊東豊雄さんがTOTOギャラリー・間のパーティで、公共建築をやりたいと叫んでいました(笑)。
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Movie 「座談会 Introduction」

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