特集/座談会

磯崎・篠原・多木がいて

北山 文化的な表現行為は世界的に連動していて、ロバート・ヴェンチューリやクリストファー・アレグザンダーなど、近代の先が見えたときに、そうではないだろうと言う人も現れていました。その頃に『美術手帖』(美術出版社)で連載されていた磯崎新さんの「建築の解体」は熱心に読んでいましたね。そのなかではアーキグラムやスーパースタジオなどが紹介されていて、建築が文化の中心にあるように感じました。そして、上の長谷川逸子さんたちの世代がそれを実践しているような感覚が僕にはありました。
長谷川逸子 篠原研究室にいたとき、「建築の解体」はみんな読んでいましたね(笑)。研究室の若い人たちと集まっては議論していました。
北山 あとは『JAPAN INTE RIOR DESIGN』(インテリア出版)です。そこに書かれていた多木浩二さんの文章には刺激を受けました。建築は文学や演劇などと同じように文化的なアクティビティとしてあって、それを30代の方々がやっているのを、20代の自分たちは驚きながら勉強したという感じです。60年代はヨーロッパやアメリカでも、コーリン・ロウやレイナー・バンハムの本など、建築の理論書が出てきました。活気のある論争や実作がたくさん出てきた、驚くべき時代だったと思います。
長谷川逸子 私は菊竹清訓建築設計事務所にいた頃は大きな建築を担当して忙しく、身体を悪くして篠原研究室に移籍したのですが、読書ばかりしていましたね。読みたい本がたくさんあって、結局12年間もいたことには自分でも驚きました。
北山 あの頃に読んだ本から得た知識や感覚は大きなものです。今でもまだ、それらをもとにつくりつづけているように思います。
長谷川逸子 さんの世代は、また次の世代になるわけですが、どうでしたか。
長谷川 豪 コーリン・ロウやヴェンチューリなどはもちろん読んでいました。多木さんのテキストも読みましたが、なかなか難しくてよく理解できていなかったと思います。多木さんは70年代に『新建築』で、当時まだ若手だった伊東(豊雄)さんや坂本(一成)さんの新作を批評していたりして、彼の言説にのることが、建築家にとってひとつの目標になっていたようにも見えました。多木さんはあの時代にとても重要な役割を果たしていたのだと思いますが、今はあのような方はいないですね。
長谷川逸子 不思議な交流がありましたね。磯崎さんもおもしろがって、篠原研究室によく遊びにきていました。磯崎さんと多木さん、そして篠原さんとで食事する場に私は秘書のように同席させてもらって。多木さんと篠原さんがけんかをすると、いつも私が仲裁に入るんです。優秀な先輩方に囲まれて、気楽に会える時代でした。
北山 30代半ばの方々が濃密に、また活発に議論をしていて、すごいですよね。
長谷川逸子 いろんな人を巻き込んでいましたね。
長谷川 豪 大学の一研究室が、最先端の議論の場になっていたのですね。
北山 東工大はとくに、アトリエを内部にもっていましたからね。
長谷川逸子 篠原先生は好き嫌いが多かったようなイメージがありますが、若い人が会いたいといって来ると、誰とでも会って議論する人でした。研究室が、住宅をつくるための現場として開かれていたのです。
長谷川 豪 篠原さんは住宅が完成すると若手建築家を招いて見学会を催して、その後に飲み会を開いたそうですね。そこでは直接篠原さんに感想を言わなければならず、とてもこわかったと聞いたことがあります。
長谷川逸子 そうですよ。いろんな人がその場に呼ばれていました。
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Movie 「座談会 Introduction」

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