——ほかの人がやっていない新しいことをしよう、という気概があったように見えました。
- 長谷川逸子 時間があったのでしょうね(笑)。人がやっていないことをしよう、という意識ではなかったとは思います。みんな、まじめに建築に向かっていました。
- 北山 僕は、68年のパリの五月革命から日本の学生闘争、それに同調する芸術運動や寺山などの演劇の世界、そういったものが当時の建築家の活動に大きく関係しているような気がしています。それ以前の戦後の貧しい状態から経済的に立ち直ってきて、モダニズムがユニフォームのような状態で経済活動のメカニズムに組み込まれていくなかに、ガサガサした違うものをつくろうとする感覚があの時代にはあったように思います。自分が学生のときには、みんなが同じものになっていることへの抵抗感があり、それに対する文化的なアクティビティがありました。建築もそうした動きに連動しながら、ある種の文化的な表現行為として活発な動きがあったのではないかと思います。
- 長谷川逸子 60年代の全共闘のときには、私たちの世代は高校生でした。潜在意識としては強くあると思います。静岡の高校に通っていましたが、影響を受けて卒業演劇を女子を総動員してつくったりして。東京まで現代劇をわざわざ観にきたりしていました。