建築を目指したのではなく、飛行機をつくりたくて、今の首都大学東京の前身の都立工業専門学校を出て、1941年に海軍の技術士官となり、厚木で機体をつくっていたが、敗戦。マッカーサーの厚木上陸というか厚木降臨のため、ガソリン補給の用意をしたのが飛行機技術者としての最後で、敗戦を境に建築へと方向転換する。
 51年に東大を出、前川國男の紹介でレーモンドの事務所に入り、楽しかったが3年で辞め、坂倉建築研究所に移り、渋谷の東急デパートなどを担当し、これも楽しかったが、プライベートアーキテクトになるには限界を覚え、55年、公団に移った。
 公団で活躍する津端さんが現在地に自邸をつくることになったのはかの"高蔵寺ニュータウン"建設のためだった。
 津端さんは役人気質が幅を利かす公団のなかで"夢多き人""やりたいことは委細構わずやる人"として鳴らす。公団の外でも、海軍時代からのヨットマンとして知られ、本格的なヨットを設計し、自分でつくり、太平洋をひとりで縦横に走ってきた。88歳になったが、今年もタヒチまで波を切りに行った。夫人の本を読むと、そうした自由で活動的な夫と暮らすため、質屋通いもしばしばだったという。
 建築家・津端修一は、ススキしか生えないような高蔵寺の原野の一画を相手に、ふたつのことをした。ひとつは、雑木林の回復。エゴ、ソロ、ナラ、クヌギ、アベマキの6種の苗木を坪当たり6本で計180本植えた。これらの一部が現在、立派な雑木林に成長し、津端邸の庭と畑と家を守っている。
 もうひとつは、78年にドイツで見たキッチンガーデンの実践。いろんなメディアの津端家訪問記のページを開くと、雑木林とキッチンガーデンの話が出てくるからそれを見てほしい。

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