でも山口の日本の建築家では異例なモダニズム史上のカクカクたる"武勲"を振り返ると、放っておけない。なんせ、大正を代表する分離派からスタートしながら、その芸術至上主義に反旗をひるがえし、創宇社を結成して、日本の建築界に強烈な社会意識を吹き込んだのだった。やや建築界は離れるが、創宇社の"子分"たちが地下化した共産党の活動で投獄されるなか、建築家の表の顔と非合法メンバーとしての顔をからくも両立させながら、裏で唯物論研究会を支援しつづけたとか、戦後は戦後でGHQが共産党を非合法化したとき、代表の徳田球一が山口邸の庭先の付属棟に一時身を隠してから中国へ脱出したとか。
 世界の建築と日本の歴史の激動のなかをからくも潜り抜けながら、しかしそうしたあれこれについて確かなことはなぜか語らず、社会的にはモダンでオシャレで社交的な建築家でありつづけた。設計事務所の所長としてもすぐれ、戦後はRIAを結成し、近藤正一、植田一豊、三輪正弘、渡辺豊和などを育てている。
 こうした歴史上の"武勲"と林芙美子邸の普通の木造のイメージが一致せず困惑し、なんとかしなければと、山口文象邸探訪を決めたのだった。
 場所は、戦前に開発された大田区は久が原の郊外住宅地。昭和15(1940)年に竣工し、今はご子息の勝敏氏が住んでおられる。
 まず外観を見て、木造モダニズムと思った。理由は2カ所。ひとつは屋根で、広く平らな屋根が、ひとつの平らな面として道に向かって流れ下っている。前川國男の昭和10年代の作品に顕著に見られる木造モダニズムの特徴にちがいない。
 もうひとつは側面で、片流れの屋根の下は、庭側が2階建て、道側は平屋で、平屋のほうは高天井の主室として使われているはず。レーモンドの軽井沢夏の家このかたの木造モダニズムの得意技ともいうべき空間のとり方。


>> 「自邸」の年代別1階平面図を見る

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