Philosophy TOTOのこころざし

初代社長 大倉和親
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PROLOGUE 「健康で文化的な生活を提供したい」という想いを胸に

大正6(1917)年、九州・小倉の地で日本初の衛生陶器の製造会社として東洋陶器株式会社(現在のTOTO)が設立した。創立者は衛生陶器の国産化に情熱を注いだ大倉和親だ。
彼が明治36(1903)年、父・大倉孫兵衛とともに出かけた欧州視察で真っ白で清潔な衛生陶器を目にした時、「日本にもいずれは衛生陶器の時代がくる」と確信。その当時のトイレは汲み取り式で、家の外に置かれていた時代のことだった。「衛生的な陶器の便器を普及させることは、必ずや社会の発展に貢献する」その固い意志と不屈の精神で衛生陶器の普及の道を歩み始めた。

EPISODE 1 私財を投じて製陶研究所を設立。衛生陶器への挑戦

「一刻も早く研究を開始しなければならない」
設立当時の日本陶器合名会社

衛生陶器とは、浴槽、流し、大便器、小便器、洗面器など水まわりに用いられる陶製の器具を総称する。各家庭に衛生陶器を設置する下水道などのインフラがない状況下で、衛生陶器製造の決断はあまりにも早く、大胆なものだった。

製陶研究所

大きく形状が複雑な衛生陶器を作るのは困難とされ、日本では誰も手がけていない衛生陶器の研究、製造を始めることは、日本陶器合名会社の(現在のノリタケカンパニーリミテド)幹部から理解を得られなかった。
明治45(1912)年、名古屋にある日本陶器合名会社の一隅に、大倉父子は私財を投じて製陶研究所を設立し、新しい分野開拓のため研究をスタートさせた。

当時の主任技師の試作状況ノートには「素地、釉薬の調合について1万7280余種の調合と試焼を重ねた」とある。膨大な試行錯誤の末、大正3(1914)年に国産初の腰掛式水洗便器がついに完成。「輸入品に比べて遜色ない」という試験販売の評価を得て事業化を決意。工場建設へ動き出した。

EPISODE 2 世界を見据え、新たな分野の開拓を目指す

建設中の小倉工場

工場建設場所として小倉の地が選ばれたのは、原料のカオリンや天草陶石、燃料となる石炭が手に入りやすく、またアジアの輸出に適した門司港が近くにあるという好条件が揃った地のためだ。
1917年(大正6年)東洋陶器株式会社設立。社名の「東洋」には、市場を欧米だけにとどまらず「中国大陸、東南アジアなどの東洋市場に力点を置きたい」という和親の世界に通じるものにするという強い意志が反映されている。

「快適で衛生的な生活文化を普及させたい」
国産初の
腰掛式水洗便器

「誠実に事に臨むことを誓い、欧州の製品を凌駕し、世界の需要に応えて、ますます貿易を盛んにすることを決意する」創立者である和親の強い想いとともにTOTOは衛生陶器メーカーとしてその第一歩を踏み出した。

しかし、創立当時は生産面、販売面ともに順調ではなかった。衛生陶器というもの自体を見たこともない日本人へ、その必要性を理解してもらうために「衛生陶器とは何か?」という啓発書をつくり、トイレ、洗面所や浴室への理解を深めてもらうことから始めた。

カタログや図面帳

EPISODE 3 技術革新である全長107.5mのトンネル窯を導入

「近い将来、日本でも必ず衛生陶器の需要は増大する」
トンネル窯建設

和親が新工場で情熱を注いだのは、革新的な焼成窯であるトンネル窯を建設することだった。大正元(1912)年、ヨーロッパを視察の際に書かれた手紙には、「ドイツで行われ始めたる白素地焼成トンネル窯、詳細に取調べ実見の結果、この専売を買入れ一歩も早く行いなば、一時の犠牲はともかく将来の利少なからず。石炭の節減四割五分に達しつつあり、驚くべし」と記されている。帰国後、日本国内独占使用権の取得交渉を始めようとしたが、幹部たちの賛成を得られず、和親はまたしても私財を投じた。そして、大正7(1918)年、イギリスにあるドレスラー社と独占権取得契約が結ばれた。

トンネル窯完成

連続生産可能なトンネル窯が導入されたが、下水道などのインフラがほとんど整っていないため、衛生陶器の注文は入らず、生産を始めていた食器製造で経営を支えながら、衛生陶器の需要が増えるのを待つ状況が続いた。

EPISODE 4 苦境にも負けない積極経営で活路を見出す

「創立時からの和親の構想が実り、水まわり総合メーカーを目指す」

暗中模索の中でTOTOがとった一つの戦略は東京に出張所を出すことだった。当時、東京ではさまざまな洋風建築物が建設されていたが、そこでの衛生陶器には輸入品が使われていた。
大正12(1923)年におこった関東大震災は東京の約4割の都市部が消失するという大惨事となり、多くのビルが倒壊した。TOTOの高級衛生陶器は丸ビルの復旧など、復興特需を受け高級建築物からの大量注文が入るようになった。

大正10年開設の東京出張所

昭和に入ると震災による復興事業、産業界の景気回復。また近代化を進める東京は下水道計画や高層建築化により、衛生陶器の需要が飛躍的に伸び、業績向上の足がかりとなる。 和親は創立時から「衛生陶器は付属金具とセットして機能を発揮するものであり、そのためには優秀な水栓金具の自製化が望ましい」という水栓金具の自製化構想をもっていた。生産が伸びるとともに性能を左右する水栓金具の需要が膨らみ、昭和21(1946)年に自製を開始した。

水栓金具が自製可能になったことでTOTOの核が形成され、水まわり総合メーカーへ踏み出していった。

付属金具のカタログ
東京出張所は第二次世界大戦後には東京営業所として再開した

EPISODE 5 世界から必要とされる企業であるために

会社の現状や新商品を紹介する
初の社外報「東陶ニュース」
「創立者和親の想いを胸に、世界のTOTOへ」

戦後の住宅難を解消するため設立された日本住宅公団によって、さまざまな新機軸が出され、日本の住環境は大きな変革が起こった。昭和39(1964)年の東京オリンピックでは新幹線、地下鉄、下水道整備などとともに水まわり機器の需要も拡大。水まわりを空間として捉える時代へと進化していく。
TOTOは新分野に積極的に取り組み、単体商品から複合商品へ。そして、住宅設備機器の総合メーカーへと飛躍した。

お客様の満足を追求し、お客様へ近づく努力を続け、きずなを深める。お客様に期待以上の満足を提供したいということがTOTOの姿勢となる。社是「愛業至誠 良品と均質、奉仕と信用、協力と発展」は創立者の事業育成の精神を踏襲したもので、この変わらぬ想いは、今も脈々と社員に引き継がれている。

TOTOは世界のブランドとして、さまざまな国・地域に根ざし、そこで暮らすお客様から必要とされる存在になること。各国、各地域でのブランドを確立して、さらなるグローバル展開を推進していく。

フランクフルトで開催された「International Sanitary and Heating (ISH)2015」
社是の制定は、良品の生産を通じて企業の繁栄を図るとともに、社会の発展に寄与しようというTOTOの基本姿勢をあらためて内外に宣言するものだった。