「優秀な構造家は、優秀なデザイナーでなければならない」と高橋氏は主張する。これは裏を返せば、建築家たるもの構造が解らずしてどうして創造行為が成立しようか、というメッセージでもある。高橋氏はもともと構造家、坪井義勝研究室の出身。デザイナーでありながら、構造はお手のものである。しかしながら高橋氏本人は、自身を幼稚であると宣言してはばからない。高橋氏は建築家として、あるいは通常の建築家以上に構造家とのコラボレーションを行う。その際、幼稚であるからこそ何の先入観年もなく構造家に提案を行い、そこから未知への探求が始まるというのである。高橋氏は、ジェネラル・プラクティショナーとして自身の限界を知っている。
高橋氏にとって、設計は創造プロセスのほんの一部に過ぎない。氏によれば、建築も数学も「最も感覚的にして論理的なもの」であるという。空でリーマン面(*2)を描ける高橋氏は数学好きである。数学の問題を解くときには、先に解法が思い浮かぶという。あとはそのイメージを頼りに証明をする。数学は証明なくしては成立しない。高橋氏の建築はこれに近い。高橋氏のスケッチは、イメージである。その通りに建つとは限らない。設計は、証明されていない先を見る行為。施工監理という証明プロセスが残っている。「大阪芸術大学キャンパス」(1966-86年)も、設計競技時のマスタープランとは大きく違う。実施設計の間に揺れ動くのは、当然のことなのである。
高橋氏は、研ぎ澄まされた狙いの上に成立する偶発性を好む。たとえば「マガジンハウス」(1983年)にて使った亜鉛塗鉄板は、天候や温度に左右される不確定な素材である。同様にコンクリートも、型枠を外すまでその本当の色合いはわからない。
高橋氏のコンクリートは、型枠職人との戦いと協力関係の中から生まれる。高橋氏によれば、「職人は本気を出さない」そうである。職人がいつも本気を出してしまっていては、その会社は倒産してしまう。そこをいかに本気を出させるかが、建築家は建築家の大切な技量であるという。高橋氏は、20年以上前に完成した「塚本記念館」(1981年)で階段をつくった型枠職人の「甲斐さん」という名前を今でも覚えている。「『大工さん』と呼ぶのと『○○さん』と呼ぶのとでは、仕事に格段の開きが生まれる」というのである。型枠は、コンクリートが打ち上がると職人とともに消え失せてしまう。
「感謝の気持ちをこめてコンクリートを打つ」「ステンレスを生身のように見せたい」と高橋が言うとき、建築はすでに、物質から息を吹きかけられた生き物へと変わっている。生き物である建築を創り上げるのは、最後は職人の手である。その手を普通の手から神の手へと昇華させるのも建築家次第。高橋氏の建築は、職人との「face
to face , eye to eye 」のコミュニケーションによって作り上げる。結局人を動かすのは、高橋氏のもつ建築を愛する情熱にほかならない。建築が人の手で作られるという当たり前のことを、あらためて感じさせられる。
高橋氏は、ドイツのボンに2週間滞在して「塚本記念館」のパイプオルガンの設計に関わった。ホールから眺めると、パイプが凛と配列されている。しかし実際に鳴っているのは、壁の後ろに隠れた無数のパイプであるという。高橋にとって、建築はそういうものであるに違いない。完成形の後ろに潜む、無数のアイデアとエネルギー。数学を愛し、構造を愛し、何よりも社会そのものの縮図として建築を愛するジェネラル・プラクティショナー。古(いにしえ)の建築家の王道を辿りながらも、最も新しい建築を生み続ける高橋青光一氏。次回作が楽しみである。
*1 NAU(新日本建築家集団):1947年に結成された第二次世界大戦後最大の建築運動団体。建築の「民主主義」を合言葉に大同団結主義をとる。
*2 リーマン面:ドイツの数学者リーマンが考案した2つの複素平面を適当に組み合わせた特殊な面。複素変数zの複素関数w=√zのように、w平面とz平面が1対1対応にできない関数(多価関数)がz平面のかわりにリーマン面を利用することでw平面と1対1対応を与えられるようにした。
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