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ギャラリー・間 100回展 この先の建築
ARCHITECTURE OF TOMORROW
2003 05.24-07.26
B-3  Report 2002.09.18
「21世紀の今、プルーヴェとイームズに学ぶ」
ゲスト=松村秀一
レポーター:飯田都之麿
「建築は、生活の道具と、道の間にはさまれている。その建築を単体として取り出すことに可能性はあるか。」
松村氏のシンポジウムの中で私を捉えた問い掛けである。
 
会場風景
会場風景
松村秀一氏
松村秀一氏
小巻哲氏
小巻哲氏

撮影=ナカサ・アンド・パートナーズ
◆世界の状況の変化
松村氏は、まず、建築を取り巻く状況を「南=ロジスティックス」世界と「北=マネージメント」世界に位置付ける。つまり、アフリカのように「建築物がない」世界と、イタリアの都市のように「建築が溢れている」世界では、建築という意味合いが異なってくるというのだ。非常に単純な言い方を許していただければ、前者においては「建築=もの」であり、物流が決定要因となり、建てること自体が主眼となる。後者における建築は「建築=仕組み」であり、ソフトも含めどのように変化させ使っていくかが主眼となる。

では、東京もしくは日本はといえば、このシンポジウムで提示された日本における幾つかのデータは、例えば、1993年には90兆円という世界一の建設市場が、2002年には50兆円、約半分となり、「もの」としての建設市場は激減している。しかしながら、増改築などのマネージメントとしての建築投資は、欧米に比べ、4分の1から6分の1に留まるといったように未開拓である。このデータからは、日本においての建築という意味合いが「もの」から「マネージメント」へ移行していくように見えるのである。

◆なぜ、今、プルーヴェとイームズをとりあげるのだろうか。
松村氏の言葉を借りれば「ないから建てたい」というのは建物の発想で、「あるけど、なんとかしたい」というのは家具の発想であるということだ。まさに、「家具」とは状況に応じてアレンジが出来、さらに解体、持ち運びができる。もっとパーソナルな存在なのである。例えば、プルーヴェの建築も家具もそのほとんどが簡易に解体でき、大きなものになると150mもある巨大なアルミの建築を3度も移築することができた。イームズの家具もノックダウンという概念が重要になってくる。松村氏は写真家ピーター・メンツェルの一大プロジェクトでもある写真集『地球家族』(TOTO出版)を提示し、「建築がなくとも家具と道路があれば生活のイメージは出来てしまう」と語る。大胆な発言であると思ったが、それは、逆にいえば、そうしたものを無視した建築に何のリアリティーがあるのかという反語であるとも考えられる。

このシンポジウムの意義は、もはや建築を世界と切り離した単体として考えることが出来ないという松村氏のメッセージである。それは世界のシステムの一部であり、マネージングの思考が重要になってくるということ。大量生産の時代は限界に達しており(特に日本では)少量多種生産、もしくはマネージングの世界へ移行するであろうという示唆。そして、その世界に必要とされるのがプルーヴェ、イームズの「クラフトマンシップ」の姿勢であるということを示唆したことではないだろうか。

プルーヴェ、イームズは、共に公的資格をもたない建築家である。あえてその資格を取ろうとしなかったというのが正確であるようだが、そうした枠を超え、建築から家具、プロダクトに至るまで、20世紀にその存在を忘れることが出来ない名作を生み出し続けた天才的な総合クリエーターである。今、なぜこのふたりをシンポジウムで取り上げたのか。そのこと自体が、現代の建築状況の変化を表しているように思えるのである。

ところで、最後にナビゲーターの小巻氏が興味深いことを述べていた。1949年という年にプロトタイプともいえるイームズ邸、プルーヴェのムドンの住宅、(そしてミースのファンスワーズ邸)が建てられているというのだ。プルーヴェとイームズは異なる思考の持ち主であると思うのだが、たしかに、結果として非常に接近した作品を多く残している。一体何がそうさせるのであろうか。そうした視点で、ふたりの作品を見比べてみると面白いと思った。

◆建築、家具という言葉を超えて
さて、このシンポジウムで私が感じたのは、「建築」や「家具」という言葉がダブルミーニングになってきていることだ。つまり「もの」としての「建築」や「家具」と「建築的」「家具的」といった仕組みの部分が乖離してきて、いま、後者の仕組みとしての「建築的」や「家具的」といった部分が重要になってきているのではないかということである。私自身は、イームズのさまざまな要素をフラットに扱い、集めて、アッセンブルしていく思考を「家具的」、プルーヴェが行ったように一枚の板をさまざまに変化させて家具や建築へと拡大する思考を「建築的」ではないかと考えていたが、しかし、もはやその「建築的」「家具的」といった言葉の境界も薄れ、それを超克した新たな言葉が求められているのではないかという気がした。

プルーヴェは「建築をつくることも家具を作ることも同じである」と語っていたが、その垣根が取り払われた先にある何かを見いだしていかなければならないのである。
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