篠原氏は前半と休憩をはさんだ後半の二回に分けて、50年間にわたって氏が考えてきた建築の姿について時に冗談をまじえながらも淡々と語り、会場は息をのんでその話に聞き入った。学生時代に始まるそれぞれのプロジェクトへの取り組みを振り返っていく過程をとおして、ただ真摯に「その時にそれ以外ないと思われるようにつくる」ことを重ねていった氏の軌跡が浮かび上がってきた。
篠原氏の語る重みのある「これまで」を受けて、それを引き継ぐ若い建築家たちはどのような「この先」を描いたのであろうか。
西沢氏からは、碁のように戦略・戦術はありながら一手一手ダイナミックに変化していく状況、あるいは天気予報のように構造はあるが静定構造ではないもの、そのような他者を前提とした構造に基づいた建築という考えが示された。
藤本氏が挙げる「弱さ」「部分」といった言葉も、ひとつの原理をどこまでも垂直・水平に展開していこうとするこれまでのモダニズム的なものとは異なる視線を感じさせるという意味で、共振するものに思えた。
西沢氏による、そのような相互作用的な構造のあり方も、コンピュータの計算力の高さを利用することで可視化し、計画していけるのではないかという指摘は、人間が空間を知覚する視線を拡張していこうというアプローチとして重要だと思われた。
長谷川氏の提起する「ガランドウ」をめぐっても多くの言葉が交わされたが、それは「ガランドウ」であっても、均質で空虚な空間としてのユニバーサルなスペースではない、何かを喚起する個性のはっきりした空間、それを計画できるのではないかという手応えを皆が感じていたからではなかっただろうか。
今後の社会構造の変化を受けて、これからの時代においてはどのように建てるか(how)の前に何を建てるか(what)の検討により多くの時間とアイデアが注がれるべきであると思う。しかし同時に、そのようにして発見された「何か」を「どう」構造化していくかが従来の慣習的なものであってよいはずがない。
次々に目の前に現れてくる社会の現象にひとつひとつ対応していくだけではなく、いまだ発見されていない、よりプリミティブな次元に遡って再構築される空間のあり方、その発見・発掘へ向けてアプローチしていくこと。
隈氏がこう指摘するように、現代は建築の外部にある技術が瞬間的に内部に取り込まれるような時代である。いままで計測や認識、記述の限界から垂直化して把握していた現象や組織のあり方を問い直し、相互作用の中から建築をつくりあげていくことが出来るのではないか。
篠原氏は「私はかたち以外のことを考えたことがない」と語ったが、この先の時代にもまだ発掘され、試されるべき「かたち」は多く残されているのではないか。そこにこの先の建築につながる拡張された建築のあり方が見えてくるように思われた。
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隈研吾氏 |
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西沢立衛氏 |
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藤本壮介氏 |
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