藤森照信の「現代住宅併走」

第32回

「三澤邸」
設計/吉阪隆正

分離独立とモグラの家

文/藤森照信
写真/普後均

 私が45歳で初めて設計に取りかかったものの行き詰まったとき、突破口を開いてくれたのは吉阪隆正の若い頃の一文だった。煎じ詰めれば、“周囲の目など気にせず、やりたいようにやりなさい”、と書いていた。
 吉阪の作品のなかで本当にやりたいようにやった建築を指折るなら、今回紹介する〈三澤邸〉は、1、2に入るのではないか。こんな住宅をつくれるのは、後にも先にも吉阪ひとり。
 施主の三澤至・満智子夫妻は、親の代から吉阪家と付き合いがあり、満智子さんの父の大村雄治はアテネ・フランセの創立者でもあり、大村と吉阪は、しばしば得意のフランス語で話していたという。
 施主は、衝動買い的に土地を入手した後、吉阪にいっさい任せた。本当にいっさい任せた結果、設計に2年、軀体工事に1年、乾燥のため1年寝かせ、家族が引っ越したときはひと部屋しかできておらず、仮設の電気を使い、食事は外で焚火に飯盒のキャンプ状態。U研(吉阪研究室)のスタッフもどこかの部屋に寝袋で寝泊まりしながら、起きれば設計と自力工事の日々。もちろん食事とお酒は満智子さんの担当。こんな状態が10年も続いてやっとU研のメンバーは東京へ引き揚げていった。この怒濤の10年について満智子さんは「ものすごく楽しかった」。
 吉阪隆正という戦前ジュネーブ育ちの建築家にして登山家と、大竹十一(じゅういち)をチーフとするU研が、葉山の小高い崖の上でその本性を火薬のように爆発させてつくったのがこの住宅なのである。
 建築のことに入る前に、珍しい話を聞いたので忘れないよう記しておく。吉阪が、昭和25(1950)年、早稲田大学の助教授のとき、ル・コルビュジエの事務所に入ったことはよく知られているが、満智子さんによると、子どものときにコルビュジエの家にしばらく預けられ、自転車に乗ったりして遊んでいた、というのである。前川國男、坂倉準三と違い、吉阪はコルビュジエにかわいがられたとは聞いているが、子どもの頃からのことだったのか。初耳。何かの間違いか、あるいはそんなこともあったのか。


>> 「三澤邸」の平面図を見る

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