インタビュー

——そういった村野藤吾の手法の源泉は、どこにあるのでしょうか。

長谷川 大学を卒業した翌年、『日本建築協会雑誌(現・建築と社会)』に、「様式の上にあれ!」(19)というとても長い論文を書いていますよね。要は和風建築についても「様式の上にあれ!」なんですよ。彼がこの論文で述べている「現在主義」というのは、過去の美的カノンにのめり込んで、それをマスターしてから自分の設計をする、ということとは違う。日本主義みたいな、あるいは当時でいえば国粋主義のような建築をデザインするつもりはない、ということです。それから、未来のために設計をしているわけでもない、ということでもあります。あの時代、多くの建築家たちが、モダニズムのスタイルを「未来の建築」として、その実現のために邁進するような姿勢をとっていましたが、彼は違った。未来の実現のために現在を犠牲にするような立場を、村野さんは絶対にとりませんでした。それが現在主義です。

——村野藤吾の建築には、時にはモダニズム、あるいは様式的なものもあります。その多様な作風も、村野が現在主義者だからでしょうか。

長谷川 そうですね。自分の内部から湧き出てくる創造力を実現するためには、過去にも未来にも手をつっこんでいた人ですよ。たとえば、「森五商東京支店」(31)、「大阪パンション」(32)、「宇部市渡辺翁記念会館」(37)などは、ル・コルビュジエやロシア構成主義を連想させます。ただそれらは、未来の理想を宣言するような未来主義者としてデザインしたわけではなく、未来に手をつっこんでいるけれども、あくまで現在主義者のデザインです。同じように、和風建築を手がけるにしても、現在主義的なものになる。だから、この「千代田生命本社ビル」(66)の和室でも、基本的には和の設(しつら)えを用いながらも、こういう過去には見たこともない障子をつくることが、彼にはできてしまうんですね。

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