
新たな「感泣亭」
としてまとめる
こうした想いや考えを受けて、Eurekaと三浦さんは動きはじめた。まず行ったのは主屋の構造補強。これは、住居としての今後に配慮した対応である。しかし、生田という著名建築家の作品であること、小山という詩人の書斎が存在することを考えると、とくに内部はそのまま残したい。なんとか外部だけで補強ができないか。そうして構造計算による検討を進めた結果、基礎の一部に手を加えれば、外壁と屋根の補強のみで、構造耐力上の安全性が確認できることがわかった。ただし、1980年にも玄関と書斎の増築が行われており、そのときに既存の外壁を撤去し、代わりに下屋が取り付けられたため、とくに壁量が不足していた。そこで、下屋の壁を上へ延ばし、屋根と連結して補強が行われた。したがって、手前の屋根は新しく、竣工当初の姿より葺き下っている。「こぢんまりとしたたたずまい」は、この工事で強調され、単純化された立面もあわせて、より当初の印象に近づいたようである。小山を偲んで訪れる人々に対する、設計者の配慮がうかがわれよう。
そして、いよいよ増築である。増築も、主屋のたたずまいを残すことを重視して、分離増築が選ばれた。まず隣地との境に、主屋側だけオープンにする格好で、RC造の壁、袖壁、屋根をつくり、やや低い位置から木造の屋根を延ばして、細い鉄柱で支えている。木造屋根には、端部に鉄材、その下にモルタル塗の垂壁がまわる。三方はガラス戸で囲まれ、非常に開放的である。食事会などの内部で行われている活動が見えることは、地域のネットワークの継承という考えを実現するうえでとくに重要であったと思われる。
そのうえで、このガラス戸は、主屋の竪羽目板と同じ材料としている。また、増築部の床材も、既存の玄関ポーチや塀に続いて煉瓦で揃え、トイレの囲いも主屋の水まわり同様ブロック積みとしている。こうした主屋の要素を引き継ぐ工夫によって、全体が新たな「感泣亭」としてまとめられた。
さて、この増築が完成したのは2012年。竣工後、地域の集まりを催した際は、母の常子さんが大勢の人を集めてくれたそうだ。そして、「感泣亭」が今後も生きつづけることを確認して、常子さんは昨年亡くなられた。享年93。常子さんの遺志で、葬儀は増築部で執り行われた。その後、この空間は継続的に使用され、周囲からの評判も上々。レンタル希望まで増えている。
生田の将来を見すえた設計、立原に関係したつながりが、Eurekaと三浦さんをこの地に引きあわせた。そして、息子夫婦の「ネットワークも受け継ぐ」という考えと、それに基づく設計は、「亭」の内にある公共性を引き出し、詩人の号やその住居としてあった「感泣亭」の存在を、地域に向かって開いてみせた。水田、同潤会、住宅営団ときて生田勉。「感泣亭」は、土地や住宅がもつ歴史を次世代へ継承する際の、増築がもたらす意味の変化をはっきり示す好個の作品といえよう。





