かつては大黒柱の先まで板の間は続き、板の間の上には大ぶりな食器棚が置かれ、板の間に続いて土間が広がり、竈(かまど)と流しが据えられていた。土間、板の間、大黒柱。こんな3点セット、これまでの吉田作品では目にしたこともない。
 先に進み、この家の主室というべき画室に入り、ギョッ。部屋の広さとプロポーションはいかにも日本的で落ち着き感に満たされているのに、目を上に向けると造りがただごとではなく、手斧(チョウナ)でハツった何本もの丸太梁が重なりあいながら走る。畳敷きに障子の部屋なら棹縁天井にすべきところを、天井を取り払って小屋組の梁を露出させているのだ。
 土間、板の間、大黒柱の3点セットに丸太梁露出を加えれば、答えは民家。そう、茅葺きの民家の造りがこの家には導入されている。
 それだけではすまない。上を見上げると、丸太梁露出が部屋の全面を覆うわけではなく、一部には平らな天井が張られるが、その形は“搔込み天井”にほかならず、使われているのも、平らの部分は網代(あじろ)で、支える桟は細い丸太。もちろん形も材もいわずと知れた茶室の造り。
 添田さんによると、今ピアノの置いてある部屋の隅の少し入り込んだ板敷きのところにはかつて水屋があり、また、部屋の中央に近いあたりには炉も切ってあるという。
 ここまで聞くと、部屋の入り口の対面側の2枚の障子を開けた先の意味不明の造りの意味が明らかになる。そこには、外から見ると、飛び石の露地が延び、皮付きの細い柱に支えられた軒の下には小さな土間があり、小さな縁があり、障子を開けると画室の中に踏み込む。茶室でいう土庇(どびさし)の造り。
 民家の造りに続いて顔を出したのは茶室の造り。
 意外な展開に心配になり、残りの部屋もあわてて見た。
 画室の隣は、今は家具で閉じているがかつては襖で仕切られた続き間があり、テーブルが置かれ、食堂兼居間として使われていた。造りは、画室の搔込み天井がそのまま延びているから、茶室の趣味。
 2階は寝室として使われ、天井を見ると造りは洋風の民家といっていいだろう。
 書院造をどこかでやっていないか心配になったが、それはなかった。
 この家の基本は民家風と茶室風からなり、書院造は落とし、数寄屋造もはずしている。もちろん新興数寄屋もない。なぜ、書院造も数寄屋造も新興数寄屋もないと判断したかというと、この三様式の見せ場となる床の間の付いた部屋が見当たらないからだ。
 日本の伝統的木造の最大の見せ場である床の間を落とし、民家と茶室から集めてきた造形を組み合わせてつくられた家。
 じつは、民家の土間と丸太梁の露出については、新興数寄屋の代表作として知られる「杵屋別邸」(36)の応接間で小規模に試みている。そのとき、奈良の大和様風の茅葺き屋根も試みている。
 とすると、民家に想を得る試みをさらに推し進めるべく旧山川秀峰邸と取り組み、そのとき、民家だけではあまりに泥臭いというか鄙の度が深すぎるから、オシャレ感を加えるために民家とも血はつながりながら都の産物でもある茶室を加えたのか。ひと筋縄ではいかない住宅である。

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