藤森照信の「現代住宅併走」

第28回

旧山川秀峰邸
設計/吉田五十八

民家と茶室のコラボ

文/藤森照信
写真/秋山亮二

 吉田五十八については、これまであれこれ考えてきたし、取り壊された名作のいくつかも若い頃、訪れている。
 そして今、判断に迷っていることがある。吉田の新興数寄屋を〈木造モダニズム〉の流れに加えるべきかどうか。このシリーズの読者ならご承知のように「聴竹居」(1928)の藤井厚二に始まり、堀口捨己、レーモンド、前川國男、丹下健三、吉村順三と続く面々の手がけた木造建築を日本独自の建築表現として括り、そのように名づけて扱ってきた。
 そのとき、対抗勢力としては日本の伝統的な大工棟梁たちによる建築表現を想定していた。たとえば、社寺とか書院造とか数寄屋とか茶室などの、古より続き、明治の近代化、洋風化のなかでも生き延びてきた表現を対抗勢力とした。こうした今も生き延びる流れを“近代和風”と称してひと括りにするのもいいが、それでは木造モダニズムもそのなかに含まれる恐れもあり、ここでは〈木造サバイバル〉と呼ぼう。
 木造モダニズム対木造サバイバル——こういう構図でこれまで考え、吉田が昭和10(35)年に定式化した新興数寄屋も前者に加えてきたが、今は迷っている。両者の中間的存在か、もしくは、新興数寄屋と堀口捨己の戦後の和風作品、たとえば名作「八勝館御幸の間(50)も一緒にして木造モダニズムから木造サバイバルへと移してしまいたい衝動に駆られるときがある。どんなイズムも前衛性を失ったとき、サバイバルに組み込まれていくのだから。
 そんな迷いを抱えながら吉田の手になる「旧山川秀峰邸」を訪れた。日本画家の山川が、戦時中の疎開のため、別荘を兼ねて、東海道の二宮駅から近い海辺の砂丘の上に建てた。砂丘から海辺まで敷地は続き、松林の向こうに太平洋が広がる絶好の地であったが、終戦を待たず、秀峰はここで没している。息子の山川方夫が継ぐが、『三田文学』編集長として、また作家としても活躍中、交通事故死し、今は地元の添田登氏が入手して使っておられる。添田さんは若い頃、この家で秀峰から俳句を見てもらったこともあるという。
 疎開用の別荘と聞き、ごく簡単な家かと思ったが、ちゃんとした門も付き、門から玄関までのアプローチも十分あり、思いのほか立派である。しかし、外から見ただけでは新興数寄屋っぽさに乏しく、地元の趣味のいい棟梁のデザインに見えてしまう。
 玄関から三和土(たたき)に足を入れても新興数寄屋っぽさは感じられず、同じ木造の伝統でも違う筋を感じる。一番の理由は、三和土に立つと、目前には狭い板の間があり、真正面に黒光りした太い大黒柱が立っているからだ。

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