藤森照信の「現代住宅併走」
空間を統合する × バッテン

 自分の失敗の経験を踏まえ、若い人の設計に注文を出しつづけた故・林昌二が、その昔、“ブレースを露出するな”との一文を書いた。狭い家の中に、狭いが故にせよ斜めの材が走るのは、垂直・水平の美を基本とする戦後モダニズムのなかで育った林さんの目には耐えられなかったにちがいない。一文を読んで、私もそう思った。青竹のバッテンは閉門蟄居のしるし。
 1970年代は新しい住まいのあり方が建築家によって提案された黄金の時代で、その掉尾を飾る「武蔵新城の家」(80)を訪れるにあたり、一番心配だったのはこの一件だった。この家は富永讓の自邸。当の設計者に“バッテンはよくない”とは言えないだろう。
 富永さんは第2作の「上田の住宅」(77)から自邸を経て「裾野の住宅」(82)まで、バッテンを自分の木造住宅のしるしとしているくらいだから、林昌二の苦言は富永さん向けだったかもしれない。
 バッテン好きはル・コルビュジエと関係あるのでは、と会う前に予想していた。バッテン大通りによってパリを大改造する計画で衝撃のデビューを果たした若き日のコルビュジエに、富永さんが早くから取り組んでいるからだ。
 本人にコルビュジエとの関係の起点について聞くと、
「菊竹さんから独立したが、厨房と食堂の改修設計代として30万円もらって大喜びしているような仕事のない時代で、事務所が近い2年先輩の伊東(豊雄)も同様だから、安い昼飯を食ってダラダラ話した後、事務所に帰ってもすることはない。シーンとしたなかでウツウツとして精神的におかしくなるから、コルビュジエの『ガルシェ邸』(27)あたりから模型をつくり、勉強がてら気を紛らわせていた」。
 その頃、日本でも世界でもコルビュジエ熱は没後の鍋底状態にあり、若い世代で関心をもつのは富永さんくらいだった。
 というわけで、バッテンのコル由来予想はハズレ。
 ハズれたが、富永設計のバッテン住宅が川崎市の“千年新町”のただ中にあることは図像的にはおもしろく思った。戦後の住宅不足解消のため川崎市が田んぼを埋め立てて生まれた典型的な戦後すぐの郊外住宅にほかならず、戦前の田園都市系郊外住宅と違い、緑地や公園などの都市的ゆとりをいっさい欠き、ひたすらのグリッド状住宅地。コルのパリ改造計画も、ひたすらのグリッドとバッテン計画で、その名は“輝く都市”。川崎は“千年(ちとせ)新町”、なんか似ている。千年新町のひたすらグリッドに富永さんのバッテン住宅が投入され、極小“輝く都市”が発生した、といえなくもない。
 などと考えながら富永さんと一緒にまず外を眺め、次に中に入り、問題のバッテンだらけの2階に上がった。2階を一巡し、3階にも上がり、ひと安心。
 バッテンが写真で見たようには目障りではないばかりか、斜めに走る木材が、平坦で動きのない壁面に活気と締まりを与え、空間の質を高めている。バッテンの投入が、危惧したように空間を内側からバラケさせる働きはしていない。


>> 「武蔵新城の住宅」の平面図を見る
>> 「武蔵新城の住宅」の断面図を見る

  • 1/2
  • →
  • Drawing
  • Profile
  • Data

TOTO通信WEB版が新しくなりました
リニューアルページはこちら