特集4/対談

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界工作舎に入所した頃

——まずは、河内さんが入所された頃のお話を聞かせてください。

河内一泰 2000年に、東京藝術大学大学院を修了後、僕はヨーロッパに2カ月ほど行っていたのですが、その帰国後に就職先を探していました。もともと個人の建築家として独立したいと思っていましたから、どの建築家のところで実務経験を積もうかと、建築雑誌をパラパラとめくっていたんです。そのときに難波さんの「箱の家23」(1998)が目に留まりました。形態としては、正直、あまり印象に残らなかった(笑)のですが、自分の方向性がはっきりしていない若いときには、作風の濃い建築家のところより、むしろ汎用性のあるアノニマスなものをつくっている建築家のもとで働いたほうがよいと思いました。もうひとり気になっていたのは坂茂さんです。そのとき、僕の知る限りでは、お施主さんから条件を与えられるより先に、建築家側から独自の提案をする人は、坂さんと難波さんしかいませんでした。おふたりのどちらかのもとに行こうと心に決め、まずは難波さんに会いに行ったわけです。初めて難波さんに会ったときに「印象に残らなかった」ということも含めて、今述べた志望理由を正直に申しあげたら、「君はデザインのことがわかっているね」と言われました。
難波和彦 確かに、そういう経緯でしたね。修士計画などのポートフォリオも見ましたが、「箱の家」とはなんの関係もなかった。ただ、みなそうですよ。学生時代の設計課題で、設計者としての方向性が固まる、なんていうことはありませんからね。河内君の入所は、僕のほうから見ると、ちょっと違った事情がありました。そのとき、ちょうどギャラリー・間での展覧会「『箱』の構築」(01)の準備をしていたので、「体格がよく、見るからに体力がありそうだ。展示要員だ」と思ったのです(笑)。だから、河内君の最初の仕事は展覧会担当。
河内 僕としては、最初から住宅設計の実務を担当したかったのですが、入所後半年間は、ずっと展示のことばかりをやっていました。「箱の家」だけでなく、それ以前の作品の写真を時系列で整理したり、図面がない建物の図面を描いたり、という作業です。最初の半年間は、難波和彦という人物を予習する期間でした。
難波 河内君はフットボール部出身で、予想どおり体力があったので、原寸モデルの設営なども難なくこなしてくれました(笑)。

——展覧会の後は、住宅の設計を担当されるのですか。

河内 展覧会の準備の後、すぐに「箱の家48」(01)を担当しました。その後、58番(02)、64番(03)、71番(03)と計4件を担当し、最後の4軒目の途中で退所しました。
難波 河内君の在籍中は、「箱の家」が一番進化した時期でした。ローコストのための標準化、一室空間住居というライフスタイル、高性能とコストパフォーマンスといった「箱の家」の一連のコンセプトを統合して、「サスティナブルな箱の家」に進化させようとする転換期だったのです。たとえば、河内君担当の48番はLVL(Laminated Veneer Lumber)を最初に使った「箱の家」でした。LVLは、かつてエンジニアリング・ウッドを取材したときに、一番先進的な素材だと思っていました。LVLは、ニュージーランドやチリなどの資源国で、コンテナに積み込むサイズに事前に加工して、真空パックの状態で日本に輸入される材料です。丸太のまま運搬するような乱暴さがないし、資源国での労働を生み出す付加価値があるので、ただの搾取ではない。そういう観点でLVLを使うことにしました。
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