
——福島加津也さんは東京藝術大学の大学院で学ばれ、伊東豊雄建築設計事務所を志望されましたが、動機はなんでしたか。
- 福島加津也 学生時代、最先端の現代建築にはあまり興味をもっていませんでした。むしろ、伝統的な集落に関心がありました。それで大学院生のときに日本中の40数カ所の集落を車の中に寝泊まりしながら北から南に見てまわりました。途中で当時メディアをにぎわせていた現代建築もいくつか見ましたが、心に訴えかけてくるものはありませんでした。けれども最後に九州にたどり着いて、熊本の「八代市立博物館」(1991)を見たとき、伝統的な集落の強さに対抗しうる現代建築に初めて出会ったように思いました。それが伊東豊雄さんの事務所の門を叩こうと思ったきっかけです。
- 伊東豊雄 何年頃かな。
- 福島 1993年ですね。「八代広域消防本部庁舎」(95)はまだ完成していませんでした。
——ほかの現代建築には魅せられなかったのですね。
- 伊東 菊竹さんの建築のベストワンに挙げる人も多いね。私が最も衝撃を受けたのは「東光園」(64/米子)ですが。
——それで、伊東さんの事務所にアプローチされた。
- 福島 事務所に大学院の先輩であるヨコミゾマコトさんがいたので、彼に電話をして取り次いでもらい、ポートフォリオを携えて面接を受けに行きました。
- 伊東 ポートフォリオはほとんどあてにならないので、直接会ったときの感じでたいていは決めますね。最初の3カ月は互いに確かめあう期間、互いによしとなれば1年間の雇用契約、その後は期限を定めない雇用に移るという、3段階になっています。
——伊東さんの事務所には希望者が殺到して、競争率が高かったのではないですか。
- 伊東 いや普通はそんなことはないです。けれども、ちょうどその頃は入りたいという人が重なった時期かもしれません。
- 福島 入所がかなって、94年から2002年までの9年間、在籍しました。
——所員の在籍期間はどのくらいですか。
- 伊東 私たちのような規模の設計事務所としては、平均在籍期間は長いようです。とくに決まりも方針もないのですが、担当の現場が終わったときが独立のタイミングで、早い人で4、5年、次が9、10年くらいに独立するという周期があります。4、5年というと、だいたいのことがわかってきて、経験を生かし、さあこれからという年数です。そのときに辞めてしまわれると事務所としてはとても痛いけれど、それはこちらの都合なのでしかたがありません。
- 福島 私が入る少し前に、キドサキナギサさん、佐藤光彦さん、曽我部昌史さんたちが辞めていて、所内には先輩にヨコミゾマコトさん、柳澤潤さんたちがいました。
——所員は当時何名くらいいらしたのでしょう。
- 伊東 20名くらい。95年に「せんだいメディアテーク」(2000)のコンペがあったのですが、その前後の時期が、人数も適当で、最も活発に議論が交わされていたという記憶があります。よくしゃべる人が多かった。元気だったのはそこまでかな。最近はみなおとなしくて、元気な奴はめったにいない。
——伊東さんと所員のあいだの年齢差が大きくなって、ストレートな物言いが難しいというような要因もあるのではないでしょうか。
- 伊東 それもあるかもしれないけれど、総じておとなしい。元気な奴がひとりいるだけでもまわりが変わってきて、全然違う。それは学校でも同じでしょう。90年代なかば、福島さんが在籍していた頃はよかったな。コンペの勝率もよかったし。日の出の勢い(笑)。
- 福島 10割とはいわずとも、8割くらいのすごい勝率でしたね。
——福島さんは在籍中、どんな仕事をされましたか。
- 福島 最初に世界都市博覧会のプロジェクトに携わりました。96年春に臨海副都心を舞台にして開催予定だった博覧会です。巨大な会場の中央に直径130mくらいのリング状の大きな建築があって、伊東事務所が設計することになっていたのですが、信じられないことに入所半年たらずの新人である僕が担当になりました。この建築はほかの施設に先行して進められ、施工会社も決まり、基礎を掘った段階で、95年に中止になってしまいました。
- 伊東 まさかの出来事だった。建築にかかわっているといろいろなことが起こる。それにしても1年目からいきなりきびしい洗礼を受けたわけだ。
- 福島 とてもショックでした。でも、その後すぐに大分県のふたつの仕事、「大分市野津原支所」(98)と「大分アグリカルチャーパーク」(01)をコンペから現場まで担当する機会に恵まれました。野津原は3000㎡くらいの小規模な公共施設、アグリカルチャーパークは農業公園のなかにある7000㎡くらいの県の施設です。
- 伊東 野津原は私も好きな建築です。アグリカルチャーパークのほうはコンペに当選したのはいいけれど、当時の知事のひと言で、木造の当選案を全面的に見直さざるをえない事態に追い込まれてしまったプロジェクトですね。






