藤森照信の「現代住宅併走」
69軒の現代住宅を訪ねて

 今回ふり返って、建築年の早い順から並べると、打放しコンクリートに注目して本野精吾の「自邸」(24)を取り上げ、23回目も本野の「旧鶴巻邸」(29)となっているのをあらためて知ったが、どうして同じ建築家の作を取り上げたんだろうか。タイトルを見ると「打放しコンクリートの元の元」と「日本初、コンクリートむき出し住宅」と題していることから、打放しへの関心が連載の早い時期から強かったことがわかる。その後も、菊竹清訓「スカイハウス」(58)、藤木忠善「すまい/サニーボックス」(63)、東孝光「塔の家」(67)、渡邊洋治「龍の砦」(68)、白井晟一「虚白庵」(70)、坂本一成「水無瀬の町家」(70)、宮脇檀「かんのぼっくす」(71)、室伏次郎「大和町の家」(74)、遠藤剛生「遠藤邸」(75)、安藤忠雄「住吉の長屋」(76)、渡辺豊和「伊東邸」(78)、林雅子「ギャラリーのある家」(83)、大高正人「坂出市人工土地」(86)、村上徹「岡山福富の家」(91)。
 日本の戦後住宅の事情をよく知らない人がこのリストの写真を見たら、コンクリート関係の業界誌かと疑うだろう。なんせ、69軒のうち16軒が打放し住宅なのである。
 日本の建築界にいると別にヘンとは思わないが、外国では逆にマサカで、打放しの家なんてめったにお目にかからない。家どころか、ヨーロッパでもアメリカでも公共建築にはほとんど使われていない。アントニン・レーモンド、前川國男、坂倉準三、丹下健三、吉阪隆正がリードした戦後日本のほうが世界のなかでは異例なのである。
 日本以外にあえて探せば、インドとブラジルとなろう。日本、インド、ブラジルいずれもル・コルビュジエの影響が強い国で、とりわけ日本は、前川、坂倉、吉阪のよく知られたコルビュジエ・スクール出身者のほかに何人かがじつはコルビュジエの元で働いていたことが明らかになっている。
 フランク・ロイド・ライトのスクール出身者もバウハウス出身者もちゃんといるのに、どうしてわが国ではコルビュジエ・スクールだけがリードしたのか、私には大きな謎だった。
 で、コルビュジエのしるしともいうべき打放しについてあれこれ考えたり探ったりするなかで、本野精吾とレーモンドの住宅が“私を呼んだ”のである。
 呼ばれた建築史家は歴史を調べて驚いた。シリーズのなかで何回か触れたように、打放しにおいてコルビュジエは日本の後塵を拝していたのである。世界の建築界における打放しおよび打放し類似表現の順を調べると、

①1923年
オーギュスト・ペレ
「ランシーのノートルダム教会」
②1924年
本野精吾「自邸」
③1925年
アントニン・レーモンド「自邸」
④1927年
カール・モーザー
「聖アントニウス教会」
⑤1928年
ルドルフ・シュタイナー
「2代ゲーテアヌム」
⑥1929年
本野精吾「旧鶴巻邸」
⑦1932年
ル・コルビュジエ「スイス学生会館」

 となる。コルビュジエはレーモンドに7年も遅れるばかりか、レーモンドは起工前に自邸の計画をフランスの建築雑誌に発表しているから、世界の先端動向に敏感なパリの建築家はそれを見た可能性が高い。
 さらに加えると、ペレもル・コルビュジエも打放しは壁面ではなく細い柱か太い柱状に使っており、世界で初めて壁面に使われた建築はレーモンドによる1934年の「川崎守之助邸」だった。赤坂の「自邸」も麻布の「川崎守之助邸」も、40年前、建築探偵団を始めたとき、堀勇良とふたりで見ているが、もっとまじめに見ておくべきだったと反省している。


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