雑誌を通して知ってはいたが、見るまでは心配だった。箱状の基本単位を並べて構成された家だったからだ。
私は故・大野勝彦が積水化学工業と組んで開発した「セキスイハイムM1」の6箱構成の家に20年ほど暮らし、あれこれ考えた。20世紀において、技術的、経済的合理性を純粋に追求すると建築は箱と化すが、その箱は人にどんな印象を与えるのか。答えは、良くも悪しくも美しくも醜くも感じないし、それゆえ腹も立たない。表現というやっかいなものが付着していないからだ。巨匠でいえば、ミースと比べたときのグロピウスの蒸留水のごとき建築といえばいいだろう。
でも、それではあまりに寂しい。20世紀の箱でありながら、毎日暮らす人には、そこはかとなく味わいが感じられるミネラルウォーターのごとき建築は、どうすれば可能なのか。
セキスイハイムに住んでみて、こうした問いを抱えていたから、下落合駅で降りて穂積邸に着くまで心配だった。ただの箱の並びにしか見えなかったらどうしよう。
低い塀越しに箱の角が見えた段階でひと安心。木の梁の角の交差が心地よく映る。木という材質と、材と材の組み合わせという木造建築ならではの表現に目が反応したのだ。
庭側にまわって全景を眺め、ひとつ反省した。同じ形が並ぶから箱とばっかり思っていたが、並んでいるのは箱というより単位なのだ。木の枠でつくられた空間の単位が並んでいる、そう感じられた。
同じ四角なのに、セキスイハイムM1は箱、目の前にあるのは空間の単位、と別なものに映る。その差は具体的には何に由来するのか。この問いを宙吊りにしたまま、中に入って穂積先生から設計時の話を聞いた。





