TOTO
建築に内在する言葉
 
著者=坂本一成
編集=長島明夫
発行年月=2011年1月
体裁=菊判(218×152mm)、上製、320頁
ISBN=978-4-88706-316-7

ブックデザイン=秋田寛+アキタ・デザイン・カン

定価=本体2,800円+税
イベントレポート
対話:建築のことばとかたち
レポーター=長島明夫
去る2月25日の夜、『建築に内在する言葉』の刊行記念として、著者の坂本一成氏に話をうかがうトークイベントが開催された(於ジュンク堂書店新宿店)。聞き手となったのは、本書の編集にも携わった長島のほか、氏の弟子筋にあたる若手建築家──長谷川豪、能作文徳の3人である。この3人はかねてから私的な勉強会を行っており、その夜のイベントは、会の歩みのなかでのある種の晴れ舞台であるとも密かに位置づけられていた。
勉強会はモダニズムのポジティヴな捉え直しを遥か先の目標とし、具体的には1970年代を中心とした近代再考の文脈にリアリティを感じて、それらのテキストが行き当たりばったりに読み進められている。それは建築の分野に限らないが、坂本一成氏のテキストは、評論家の多木浩二氏(1928~)や哲学者の中村雄二郎氏(1925~)らと思想的背景を共有し、まさにその会で対象とされるべき重要なものと言える。そして新刊の『建築に内在する言葉』は、そうした70年代以降の氏の思考がまとめられた集大成であり、対話に向けた3人の準備にも自然と力が入っていただろう。

3人が事前に用意した対話のキーワードは、抽象性、形式性、相対主義、自由といったものだった。「建築のことばとかたち」というイベントのタイトルは、『建築に内在する言葉』の書名を踏まえて3人の側から提案されたものだが、建築という確固たる具体物や、建築をめぐる取り留めない現象に言葉(論理)を見いだし、そのこと(抽象化、形式化、相対化……)を手法の根幹として自由な空間を求めるのは坂本氏の設計の重要な特徴にほかならない。そしてまたモダニズムのポジティヴな捉え直しを考える際に示唆に富む思考でもあるように思われる。

ここでは以下にその夜の対話の一部を載せ、イベントのひとまずの報告としたい。坂本氏の言葉を受けてのさらなる応答は、今後の長谷川・能作両名の仕事のうちに現れでてくるはずである。
建築家による住宅と生きられた家
能作:ハイデッガーの「建てること、住むこと、考えること」(1951年講演)を下敷きにした「〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉」(1978)という論文では、坂本さんが子どもの頃、橋の下にバラックを建てて住んでいたというある家族について書かれています。その家族の住居は拾ってきたものを工作したりしてつくられ、そこには貧しいながらも生き生きした場が現れていた。当時刊行された多木浩二さんの『生きられた家』(1976)との関連もあったと思いますが、坂本さんは、そうした生きることによってつくられる場のしなやかさといったものを非常に意識して設計を進められているように思います。その一方、〈建てること〉と〈住むこと〉の二つを対立的に捉えるのではなく、〈建築すること〉を加えて三つの関係として捉えている。文章では、物理的な場だけでなく〈精神の場〉に関わっていくことが、建築家が建てる意義だと結論づけられていますが、その考え方が、その後、建築がもつ意味作用の問題に展開され、坂本さんの現在まで至る一貫した思考になっていると思うのですが。

坂本:「〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉」は、1978年に『新建築』の編集部の求めに応じて書いたもので、少し長い文章を書きだした頃ですね。私も今回ひさしぶりに読み返して、よく言えば初々しくて、若いからこういうふうに書けたのかなと思うところもありますけど。でも、案外いまも変わってないなとも思いました(笑)。

当時、伊東(豊雄)さんや多木さんも仰っていたことですが、建築家は住宅を建築の概念として考えるわけです。それに対して〈生きられた家〉は現実の社会のなかに現れてくる住宅のあり方であって、それとこの概念とを重ねることができるのかどうか、そのことがずっと私の大きなテーマになっていたと思います。橋の下の家というのはまさに〈生きられた家〉そのものですが、最初の文章ではそのことを意識せざるをえなかった。その頃、建築家はハウスではなくホームをつくるべきだという発言が多くあって、そういう状況のもとで書いたことも無関係ではないと思います。そんなことはできるはずはない、というのがその時の僕の結論的な認識だったわけです。それならば建築家はどういうかたちで建築としての住宅をつくることができるのか、そういうことを自問自答したんですね。そういう意味では多木さんの影響があった。多木さんの現象学的な住宅の見方に対して、建築家はどういうスタンスをとるのかということだったかと思います。

ハイデッガーの「建てること、住むこと、考えること」は当時まだ邦訳がなくて、僕は分からないながらも英語訳で読みました。それで、〈建てること〉と〈住むこと〉が一致できない現代において、〈考えること〉のなかに建築家の可能性があるのではないかと。〈生きられた家〉だけでいいのだということになれば、建築は単にエンジニアリングでしかなくなってしまうわけですが、その〈生きられた〉ということに思考をめぐらすことが、これから人々が住まう場所をどうやってつくるかということに関わってくるのだと思った気がします。

確かなものの不在
長谷川:たとえば伊東豊雄さんは、近代を乗り越えるということが自分のモチベーションになっているとよく言われています。あるいは坂本さんの先生である篠原一男さんは、伝統や幾何学といったものを作品や言説に反映させていました。それは近代にしろ伝統にしろ幾何学にしろ、他の人から見ても確かだと思われているようなもの、いわば絶対的なものに依拠してつくるという立場だと思うんです。でも坂本さんはそういう確かなものに依拠しないところが特徴ではないかと思うし、また共感するところでもあるんですが、そのあたりなにかお考えがあれば聞かせてください。

坂本:僕は物事を相対的にしか位置づけることができないんですね。絶対とか真実とか、完全に確かということに対して、信頼ができないのではないかと思います。もちろん小さな根拠はたくさんありますよ。この本でも、根拠がない形式には意味がないと書いているくらいですから。だけどそうした根拠も相対的なものでしかない。

こういう認識は多木さんや中村雄二郎さんといった、あの時代の岩波派と言われる人たち、あるいは記号論の考え方、そういうことにリアリティがあって影響されたのかもしれません。それが建築の空間を考えるうえでも関わってきたのだろうと思います。おそらくそれは篠原先生の時代とは少し違うところで、伊東さんとも共有しているはずなんですが、ただ僕の場合は近代建築というのも、近代であろうと中世であろうと、ひとつの相対的なものでしかなくて、今は今だと。モダニズムを継承しようという思いもなければ、それを極端に批判するつもりもない。形骸化したモダニズムは別ですが、モダニズムの精神自体を否定することはない。それは歴史的な経緯によるわけで、利用できるものは利用し、批判すべきは批判し、そういうものとして関わっていきたい、というのが僕のスタンスです。そのとき根拠になるのが私たちを様々なかたちで取り巻いているフィジカルかつメタフィジカルな環境、つまり現実との関係であって、だからこそ〈日常〉ということが問題になるのかもしれません。

本の最後に「建築における図像性」(1985~86)という文章が載っています。これは私の学位論文を手直しして出したものですが、そこで空間の定義について、建築に固有の空間とはどういうものであるかを、色んな例を挙げながら考察しています。みんな大雑把には建築空間のイメージを持っているんですよね。僕は建築のかたち、図像ということが空間の内容と関わっていると位置づけたいと思って、それまでの建築家たち、またドイツ系の哲学者、美学者たちを含めて、空間の概念がどう考えられてきたかを分析したんですけれども、私の結論は、非常にあたりまえな結論でした。建築は人間が入ることができる内部を持った架構ですが、その内部と外部の分節あるいは関係、そういう関係としての空間が建築の空間であると。つまり関係のなかでしか位置づけることができない。様々な建築の空間があるとすれば、それは様々な関係によってつくられる空間だと。それはある種の相対主義と言えば相対主義なのかもしれません。物事の関係のなかでそのあり方が決まっていく、それがたぶん私のなかでいちばん強い、ものに対する見方ではないかと思います。
確かなものの不在
長島:いま言われた〈関係としての建築〉というのは、おそらくそこにいる人にも開かれた関係であって、絶対的な建築の価値というものはなく、その場その場で建築の質が生成されていくようなあり方ではないかと思います。それはこの本のなかで何度か書かれている〈自由〉ということ──本の帯では「自由の建築論」と謳われてもいます──、そこにも関わってくるような気がするのですが、建築における〈自由〉ということについてお話しいただけないでしょうか。

坂本:確かに巻頭の書き下ろした文章のタイトルにも〈自由〉が入っていますね。私の建築を成立させるテーマ的な考え方、たとえば〈閉じた箱〉や〈家型〉、〈スモール・コンパクト・ユニットとアイランド・プラン〉といった建築の〈構成〉に関する概念は、建築をまとめる上でのレトリック、つまり統合の論理です。そこに準拠することによって、私が設計する建築は成立しているわけです。そう言うと、なんだお前の言っていることはハウツーかと、そういう話になるかもしれません(笑)。確かに建築をどう〈構成〉するかというのはハウツーです。しかしそれは同時に、いかなる空間を成立させるかということであって、その〈構成〉による空間がもたらす内容こそ重要であるわけです。そして結局その内容が自由な空間、あるいは自由を感じる空間でもいいかもしれませんが、そういう空間であり、その空間をつくることが私の思いの中心をなしてきたのではないかと考えています。


なぜ自由なのか。我々は今、不自由なことも多少はあるかもしれないけれども、歴史的なことを考えればそんなに拘束されているわけではないし、けっこう自由ではないかとも言えます。しかし少し考えてみると、例えばここに床があって天井があって壁がある、それなりに良い状態で囲まれたスペースがありますよね。設えるなにかがあって場所が形成される、でも例えばこの壁が開いて空が見えたらさらに快適になる、みなさんの顔と景色とが重なってより豊かな気分になるかもしれない。つまり壁があることによって、場所をつくっていると同時にある種の拘束を私たちに与えているのではないか。今まであたりまえと思っていた文化的な制度、文化的な枠組みを疑ってみる。当然と思っていたその壁は本当に必要かどうか。そうしたことをもっと相対化できないだろうかと思うわけです。枠組みを壊すというほどのことではなくて、そこを問題にしながら関係をつくる。それは、ある場合は文化であったり歴史であったり設計上の現実的な問題であったりするのですが、そういう関係のなかで別の意味をつくりだす。そこに建築をつくる面白さがあるわけです。その有効な方法が、本のなかでたびたび言及している異化作用であり、ある時には詩的なという言い方をしたり、ある時には象徴力を喚起するという言い方をしたりしているということではないかと思っています。
関連書籍
『ハイデッガーの建築論──建てる・住まう・考える』中村貴志=訳編、中央公論美術出版、2008
『生きられた家──経験と象徴』多木浩二=著、岩波現代文庫、2001
坂本一成 Kazunari Sakamoto
建築家。1943年生まれ。アトリエ・アンド・アイ 坂本一成研究室主宰、東京工業大学名誉教授。主な作品「House F」(日本建築学会賞作品賞)、「コモンシティ星田」(村野藤吾賞)、著書『坂本一成 住宅─日常の詩学』『建築に内在する言葉』(TOTO出版)、『坂本一成/住宅』(新建築社)、共著書『建築を思考するディメンション──坂本一成との対話』(TOTO出版)など。
長谷川豪 Go Hasegawa
建築家。1977年生まれ。長谷川豪建築設計事務所主宰。主な作品「森のなかの住宅」(SD Review鹿島賞、東京建築士会住宅建築賞金賞)、「桜台の住宅」(新建築賞)、共著書『地域社会圏モデル──国家と個人のあいだを構想せよ』(INAX出版)など。
能作文徳 Fuminori Nousaku
建築家。1982年生まれ。能作文徳建築設計事務所主宰、東京工業大学補佐員。主な作品「ホールのある住宅」(東京建築士会住宅建築賞)、共著書『WindowScape 窓のふるまい学』(フィルムアート社)など。
長島明夫 Akio Nagashima
編集者。1979年生まれ。雑誌『建築と日常』編集発行者。『建築に内在する言葉』編集担当。共編著書『映画空間400選』(INAX出版)など。
イベント情報
イベント名
『建築に内在する言葉』刊行記念トークイベント
対話:建築のことばとかたち
出演
坂本一成、長谷川豪、能作文徳、長島明夫
日時
2011年2月25日(金) 19:00~21:00
会場
ジュンク堂書店 新宿店 8階喫茶