TOTO
磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿
 
2刷
著者=磯崎新+新保淳乃+阿部真弓
企画・編集=小巻哲
発行年月=2010年2月
体裁=菊判(218×151mm)、並製、324頁
ISBN=978-4-88706-308-2

ブックデザイン+DTP=秋山伸+堤あやこ/schtücco

定価=本体2,000円+税
イベントレポート
進むべき道はない。だが進まなければならない。道はアルゴリズムだ。
レポーター=藤村龍至

現代音楽家、ルイジ・ノーノの音楽が流れるなかで磯崎氏の話が始まった。スライドはない。語りかけるような口調で問題が設定される。

「進むべき道はない。だが進まなければならない」というタルコフスキーの宣言は、1990年当時、ノーノや自分たちのジェネレーションが感じていた気分だったという。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、いよいよ「前衛」という立場が行き詰まったその頃、問題の整理がつかないうちに「1995年」を迎える。阪神大震災、オウム真理教事件、情報化社会の到来。それまでと全く違う状況が訪れた。グローバリゼーションと情報化を前に、「建築」の枠組みはもはや消えつつあった。

柄谷行人は景気の循環理論を文化的状況に援用し、60年周期説を唱えた。磯崎氏はそれをさらに建築に応用し、「1995年」を「1935年」と比べようとする。昨今いわれる「グローバリゼーション」と当時の「大東亜共栄圏」が重なる。

1942年、戦況の悪化のなかで、当時の思想家、文学者たちが集まり「近代の超克」という討論会が行われた。「近代」と敵国である米英が重ねられ、ある興奮状態のなかで交わされた議論の場に、建築家は呼ばれていなかった。

その頃、満州や南方での仕事を任された建築家たちは、様式を詳細に検討する余裕もなく短期間で仕事をしなければならならなかった。「在盤谷(バンコク)日本文化会館」コンペ(1943)で前川は「環境空間的」、丹下は「環境秩序的」というコンセプトを打ち出す。現代の「エコ」同様、建築の枠組みが壊れたときに「環境」が持ち出される。現代と全く同じ構図である。

思考の枠組みが壊れたとき、どのように批評を組み立てればよいか。丹下健三はその頃、建築という枠組みが壊れたので、まず都市計画に取り組み、それを根拠に「建築」を構想する、という戦略を採った。全ての建築を商品にしてしまう現代、我々は「根拠」をどのように再構築できるだろうか。

まさに「進むべき道はない。だが進まなければならない」状況である。1940年代の建築家たちも今の建築家と同じ気分を味わっていた。丹下が「都市計画」を手がかりにしたように、磯崎氏は「アルゴリズム」が現代の状況を打開する手がかりにできるという。丹下時代の「都市計画」に「アルゴリズム」を、「政治」に「コンピュータ」を、それぞれ当てはめるならば、現代の建築家を取り巻く状況と課題がよく理解できるだろう。

磯崎氏も指摘するように、1995年を契機に時代状況は大きく変化した。思考の枠組みが崩れ、現代思想も、美術も、音楽も、あらゆる分野が批評の根拠を求めようと模索している2000年代の状況は、1940年代のそれと重なるといえるのかもしれない。ここ数年わが国の思想的状況においても、1942年の「近代の超克」と同じように、1995年以後の技術的、社会的状況の変化に伴うある興奮状態のなかで、批評の根拠が話し合われているからである。そのひとつのピークとして2009年12月に東京大学で開催された「ウェブ学会」では、ウェブの行方を論じるために「政治」が手がかりとして導入されていた。そしてそこには、「近代の超克」と同様、建築家の姿はなかった。

道が見えなくなってしまった時代、道なき道を進まなければならないのは変化の時代を生きることの宿命である。現代の建築家も、批評家も、編集者も、この状況に向かい合わなければ次の時代はない。

とはいえ、磯崎氏が整理するように、1995年以後の文脈で私たちに今、必要な戦略は、近年かなりはっきり見えてきた。かつて丹下の時代には「大東亜共栄圏」や「社会工学」や「統計学」が背景にあったが、現代には「グローバリゼーション」や「情報工学」や「集合知」がある、ということがかなりはっきりしてきたからである。かつて丹下やメタボリストがまず都市計画を構想し、それを土台に建築を定義したように、現代の建築家はまず情報環境を構想し、それを土台に建築を構想する必要がある。1940年代の「道なき道」の時代から1960年代の黄金期へと華やかなカーブを描くまで、一連のプロセスを目撃した磯崎氏には、現代の建築にとっての突破口がはっきり見えているのだろう。だからこそ「道はアルゴリズム」だとはっきり宣言できるのである。

ところでこの講演は、磯崎氏の近著『磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿』の刊行に合わせて開催された。同書は美術史の若手研究者である阿部真弓氏、新保淳乃氏と磯崎氏の対話により15世紀から20世紀に掛けてのイタリアの動きを解釈論的に追っていくものである。磯崎氏は定点を定め、それとの距離、関係で自らの思考を構成するタイプであるから、建築も美術も作品と運動が絶えず生まれ、世代交代していくイタリアは、作品も運動も生まれにくい日本で建築や美術を考察する上で、かっこうの参照源であり続けた。

今回のレクチャーでは10の事件簿のうち、もっとも現代に近く、また磯崎氏がもっとも関わりを持った時代ともいえる1980-1990年代の話題が中心であった。「事件簿」の記述は今のところ20世紀末で止まっているが、これは何かを意味するのかも知れないとも思う。ステファノ・ボエリらの一連のリサーチが明らかにしたように、2000年代以後のイタリアもまた、グローバル資本主義やEU統合による均質化と無縁ではなく、歴史の深いイタリアでさえも、作品や運動の生まれない日本的状況に覆われてしまっているようにもみえるからである。磯崎的思考は今日のイタリアにおいてどのように成立するのか、あるいはしないのか、成立するとすればどこが参照源たりうるのか、検証したくなる。でもそれば、むしろ私たちのジェネレーションの課題でもあろう。

藤村龍至 Ryuji Fujimura
1976年
東京都生まれ
2008年
東京工業大学大学院博士課程単位取得退学
現在
藤村龍至建築設計事務所主宰
ROUNDABOUT JOURNAL共同主宰
ART and ARCHITECTURE REVIEW共同主宰
イベント情報
イベント名
TOTO出版20周年記念 講演会「近著と建築・デザインを語る」
「日本」がまだあった頃
講師
磯崎新
日時
2010年3月2日(火)
会場
津田ホール