意外なことに長い間建築史家として論述を展開してきた藤森さんから「私は自分の建築を意識的に考えない、あえて言葉にしない」という独白から講演会は始まった。言葉にするということは洗いざらし光の下にさらけ出すことである。一方で、いま考えていることは自分の中から何かがふつふつと湧き出している状態である。そこに光が当たることは殺菌作用とでもいうのか、反応が抑制あるいは阻害されることを意味する。かつて優れた建築家が思考を言語化してそれに囚われすぎた結果、研ぎ澄まされていたはずの感覚の方が先にだめになってしまったという例は数多い。言葉は必ずしも形を育てないのだと。建築家として藤森さんがご自身の建築を考えるようになったのは最近のこと。作っている間は無我夢中で考えてこなかったことを、時の要請もあり、これまで研究対象としてきた建築と早くも20作におよぶ実作との何らかの接点を意識し始めたことから、フジモリケンチクは断片的でありながら少しずつ言葉によって表現されるようになり始めた。
過去へ
「人類の建築をめざして」という今回の講演会タイトルは、作品集『藤森照信建築』(TOTO出版より、2007年9月刊行)に収録される最新エッセイからの引用だという。この壮大なタイトルは、決して初めから考えられていたわけではない。ル・コルビュジエが『建築をめざして (Vers une architecture)」』を書いた後、磯崎新氏が『空間へ』を発表してこれに続いた。それにかたどって、あるいは便乗して、それとも対抗したのが「人類の建築をめざして」であろう。『建築をめざして』は20世紀の機械と科学の時代にル・コルビュジエが都市や建築に対する新時代の到来を告げる宣言であった。すると「人類の建築をめざして」は藤森さんが21世紀を見据えた新しい建築のあり方を、よりヒューマンな視点から訴えかけるものに違いない、そんな期待を抱かせてくれる。しかし、この期待はいとも簡単に裏切られてしまう。藤森さんのめざすベクトルはまったく未来には向いていないのである。むしろ過去に、それもものすごい昔に向かっている。具体的にいうと新石器時代(日本ではちょうど縄文時代)、関心はもっぱら人間が建築的なものを作り始めた5~6千年前にまで遡る。
土
材料の問題として、建築にはいろいろなものが考えられる。石や木や土など太古から使われてきたものの中で、藤森さんはとりわけ土に興味をもつ。マリ共和国のジェンネの大モスクは、最古にして最大規模の土の建築である。この建築の不思議な魅力はどこにあるのか。藤森さんは長年考え続けた末にある結論に到達した――「土の建築には目地がない」。これはすべての建築は目地でできているという周知の事実に対するパラドックスである。ふと見上げると天井を縦横に走る目地、目地、目地……、今ではこれが建築家を苦しめている。人の顔にも目地がないように、自然界には目地がない。大地が連続していつの間にか建築になって、また地面に変わっていく、この土の建築だけが建築でありながら自然界のルールの上に成立しているという。
柱
土の建築は壁しか作れなかった。これが柱になったとき建築のファサードという概念が生まれたのであろう。ピラミッドが建築ファサードの起源という説も一方であるが、限りなく自然に近い石や木の中から選りすぐられたものが、それを立ち上げるという人為的な行為を介して、より顔的な建築要素に昇華したと考えられるのである。先代の人々が無言のまま残してきた遺跡には計り知れないエネルギーを感じる。フランスに残るカルナックの列石は行けども行けども8列の石が並び、人家や畑を飲み込みながら3キロ以上も続く。訳がわからない、しかし最後の一石まで見に行ってしまう藤森さんがそこに居た。日本でも、もともと太陽信仰から生まれた石柱崇拝は、今では形を変え大黒柱や床柱として残っている。
フジモリケンチク
土・柱などから受けたインスピレーションは、気付いてみたらフジモリケンチクの至るところに顔を覗かせている。フジモリケンチクには大きく分けてふたつのアプローチがある。ひとつは自然素材を使う方法、もうひとつは実際に自然を建築に取り込む試みである。
自然素材を使う場合、藤森さんはこれをさらに古い技術で料理しようと試みる。割板という技術は1本の丸太を真中に楔を打って裂く製材方法であるが、裂けるのは1回きり。裂いた半丸太にはさらに楔を打って裂くことができない、事実そうでありその後の学術的調査からも立証されている。こうして鎌倉時代には1本の木から2枚しか取れない貴重な板を建築資材として使っていたという。いざ藤森さんもこの技術によって、処女作「神長官守矢史料館」(1991)をその外装材に使い、自身の建築の評価を世に問うた。地元のお年寄りからは古くさい建物という評判を聞き、建築学会賞の審査ではよくわからないという批評を買い、同世代の先鋭建築家からは絶賛された。これが以後も建築を作り続ける藤森さんの大きな原動力になっている。その他にも、焼杉という鉛直に立てた杉板の表面に火柱を起こし炭化層を作るという、今となっては職人もいなくなった技術をやることに喜びを覚えたり(=いけないことをやっている快感)、専門家の目を欺くほど上手く土のような外壁を藁とセメントで作り上げたり(=本気でだます)、木を植えるならと屋根を突き破ってみせたり(=個人的趣味)、その無邪気で率直な衝動がフジモリケンチクをフジモリケンチクたらしめている。
建築と自然の融合は、フジモリケンチクのもうひとつの大きなテーマだ。とりわけ屋上に設ける植物が重要である。近代建築の5原則が見事に具現化されたといわれるサヴォア邸を引き合いに出し、その屋上に設けられた猫の額のような植え込みを見るにつけ、基本的に屋上庭園は近代建築に合わなかったと振り返る。一方で藤森さんは、箱根の関にかつて栄えた茅葺の民家のてっぺんにシンボリックに繁殖した草や、フランスに分布する藁葺き屋根の尾根に沿って綺麗に植え込まれた花からは限りない魅力的フュージョンを感じてしまう。これを実践して見せたのが「タンポポハウス」(1995)や「ニラハウス」(1997)であり、以後この流れで「一本松ハウス」(1997)などへ展開していく。
空に
最近は、特に茶室の設計に力をそそいだ。「一夜亭」(2003)は細川護煕元首相から依頼されたフランスのシラク元大統領を招くための茶室であり、自分のための茶室を設計する衝動へと駆り立てられた作品でもある。そうして、クリの木を2本立てた上にぴょこんとのっかるように作られた茶室は、足場が外れたときにあまりにも高いことから「高過庵(たかすぎあん)」(2004)と名付けられた。茶室はもともと外から眺める建築ではなく、内に向かう小宇宙である。それ故、藤森さんは空に浮かぶような茶室を作ったのかもしれない。最新作「焼杉ハウス」(2007)も建物の天辺の角から小さな茶室が飛び出している。ひょっとしたら落っこちてしまうんじゃないかという藤森さん自身の心配をよそに。
フジモリケンチクはとても感覚的な言葉で説明されてきた。それはすごくストレートに聴衆に訴えかけた。かつてフジモリケンチクは初の個展のタイトルを「
野蛮ギャルド建築」と名付けられ(1998年 ギャラリー・間で開催)、現代建築の流れの中に新しい渦のようなものを起こした。これは当時、いや今でもなお現代建築の流れが洗練さを極める一辺倒に対してそっぽを向いた態度にも見えよう。しかしそこには、現代建築家たちへの警鐘が潜んでいるのかもしれない。「既存のすべてに似ていてはいけない」、これが藤森さんの設計理念であり、実際にフジモリケンチクを前にして私たちはその不思議な出で立ち、素材のリアルさ力強さ、そしてある種の懐かしさと愛嬌を感じるはずだ。現代建築の立ち位置とは明らかに違えども、この言葉にハッとさせされる建築家たちは決して少なくないのではないだろうか。