現代住宅併走 39

和でも洋でもなく幾何学
八木邸

設計/藤井厚二

写真/普後 均
文/藤森照信

  • 図面には居間とある麻雀専用の部屋。正面壁には、右手に床(とこ)、左手にソファが組み込まれている。ソファの前には電熱の“手あぶり”。

  • 右手奥には床の間はないが、壁に掛け軸が下がる。

  • 地味な外観。右手に生垣、左手に板塀というおもしろい造り。

  • 玄関も目立たないが、材も細工も最高レベルを駆使。

 藤井厚二の代表作は昭和3(1928)年の「聴竹居」(『TOTO通信』2000年冬号)となるが、その聴竹居がこのたび重要文化財となり、記念の講演に出かけたとき、昭和5(1930)年の〈八木邸〉の存在を当の八木さんから教えられ、このたび取材した。
 建てたのは八木市造。
 市造は大阪の糸偏(いとへん)(繊維産業を指す)の有力者で、当時の世界の綿の主産地だったインドと取り引きし、住まいは大阪近郊の香里園に構え、大阪と京都のあいだを行ったり来たりしながら暮らしていたという。
 夫婦ともに日本離れしたところがあり、家では3頭の馬を飼い、例のイギリス式の乗馬服と帽子に身を固め乗馬を楽しんでいる。
 当時の大阪と京都と神戸には、お金と教養とオシャレ感覚の三拍子揃った実業家がたくさんおり、彼らが建築家の、とりわけ新しい試みに挑む若き建築家のパトロンとなっていた。
 八木と藤井をつないだのは、茶の湯で、裏千家に習う茶の友として知り合っている。お金と教養とオシャレ感覚にすぐれた当時の関西人士は、3つに加えてもうひとつ、茶の湯を好む例が結構見られる。
 初めて全景を目にしたとき、あまりの自己抑制に驚いた。東京で馬3頭を飼うほどの家なら、もっと建物を高くするし、門構えも玄関も立派にするのに、東京風に慣れた目には2階建てが平屋に見えるし、アプローチは郊外のサラリーマンの住まいに毛が生えた程度。
 村野藤吾は和風住宅の極意として「門戸(もんこ)を張らず」と言った。大正から昭和にかけての時期、伝統的造形文化のモダン化をリードした西川一草亭(華道家)も同様であり、藤井は西川に学ぶところが大きかったという。

  • 離れの茶室(現存せず)手前の待合。

  • 階段室。手すりと手すり子に注目。藤井は正方形の次に三角形を好んだ。

  • 手すり子にも透かし彫り。

  • 書斎。天井には茶室由来の網代(あじろ)が張られる。藤井は茶室を媒介にして伝統とモダンの統一に成功する。

 まず全体を眺めたとき、気づいたのは、西川流の自己抑制に従う門柱の左と右に延びる敷地の囲いの違い。ふつうなら垣根か塀のどっちかを選ぶはずなのに、なんと右手は生垣、左手は板塀。生垣はもともとで塀は後補かと思ったが、塀の笠木が銅板の半円状になっているところや板の造りの丁寧さからして、藤井の手によるにちがいない。
 敷地の囲いを生垣と板塀に両分する門の中央を通って玄関に入ると、そう広からぬ玄関の中が左右に両分され、造りと面積からして右手が客用、左手は家族用にちがいない。客用の角柱には土足の着脱が容易なように、腰掛が造り付けられているが、私がちょっぴり藤井を苦手とするのは、こういうあまりなまでの神経の細やかさ。住まいに取り組むと、こういう辺りまで行って初めて達成感があるということか。

  • 食事室。木材を自由に壁や天井に走らせる手法はフランク・ロイド・ライトに学んでいる。

  • 椅子の肘掛に注目。

  • 奥の戸棚は斜め。

  • 食事室と調理室の間仕切りは、つなぐような切れるような微妙なデザインとなる。

 中に入ってから平面図を確かめると、向かって右手は接客機能(書斎も入るが、書斎は明治初期の和洋併置型住宅の頃より接客空間の側)で左手は家族機能と両分されている。日本の住まい方の伝統ともいうべきハレ(接客、対外)とケ(家族、対内)の両分を玄関と門にまで貫徹しようとしたところは、住まいに合理主義と機能主義をもち込んで伝統を近代化しようとした藤井ならではの試みといえよう。
 まずハレを見る。
 床面は畳はなく板を張り、いわゆる洋風をベースとし、椅子・テーブル式となっているが、窓はガラスの引き戸。教条主義的にいえば和洋折衷にちがいないが、そうしたチグハグさは乗り越えられ、新しいひとつの空間が誕生しているのがわかる。これぞ、藤井が日本の20世紀建築ならではの“木造モダニズム”の祖たるところ。
 木造モダニズムの誕生にあたり大きな役割を果たした建築的要素のひとつに収納用家具があった。
 伝統では収納用家具は室内には置かず、納戸の“長持”や“櫃(ひつ)”に隠してすませていたが、ヨーロッパ建築では家具を運び込んで室内の見せ場とする。藤井はどうしたか。日本の伝統ともヨーロッパとも違い、収納用家具を建築の一部として室内に造り付け、それを見せ場とする。収納を室内に加える点はヨーロッパ発だが、造り付けは床の間の伝統を取り込んでいる。

  • 調理室。調理室を白く塗るのは衛生のためだが、伝統の台所があまりに暗く湿っていたことへの反省も込められている。

  • 可動の調理台。

  • 流しの底面に敷かれた“謎”のガラス棒。

  • 2階寝室。通風の窓を開けたところ。

 起源の異なる和洋ふたつを取り込みながらヘンにならなかったのは、その形をデザインするとき、幾何学をベースにしたおかげだった。幾何学は数学だから和も洋もないし、両者の造形の底に潜む原理でもある。
 藤井がただ一人というか最初に、伝統とモダンの通底化に成功したのは、和と洋といった文化的差異の奥に幾何学という世界共通の原理を発見したから、と、近年の私は考えている。
 ハレの場を巡りながら、家具の次に気づいたのは床の間の一件。床の間は、中世に書院造が成立して後、日本の住宅の最大の見せ場となり室内に君臨してきたが、これを藤井はどう扱ったか。このテーマが伝統とモダンを通底させるうえの勘所であることは、藤井が『床の間』(田中平安堂)と題する一冊を出していることから明らかだろう。
 このテーマについての藤井の答えは、床張りの“麻雀の間”(居間)に見て取れる。施主と建築家は茶友に加えて雀友でもあり、雀卓はじめいっさいの小物まで建築家はデザインしているが、当然、“床の間”にも取り組み、正面の壁面に、右手に床の間的飾り棚、左手にソファを組み込んでいる。
 椅子・テーブルの暮らしにあってはソファは大事な人の座にほかならない。日本の床の間の系譜のなかには床の畳敷きを貴人の席とする例があり、このあたりのことを考えて、ソファと飾り棚を並べて組み込んだのかもしれない。
 ケの機能のほうで注目したのは、調理室と家族用の食事室で、まず調理室の流しの造り。人造石研ぎ出しはいいとして、底面にガラス棒が並んでいるではないか。このような工夫は前にも後にも出合ったことはない。一見して茶室の水屋の流しに取り付けられる簀の子張り(丸竹の並び)が元と気づくが、油物の洗いや水の飛散、ガラス棒自体の洗いを思うと、ずいぶんお手伝いさん泣かせの実験だったにちがいない。なお、家族12人に使用人3人がこの家に住んでいた。ガラス棒はここまでやらなくてもと思ったが、食事室の椅子の工夫には共感した。椅子は肘掛が付いたほうが身体は楽だが、付くと立ち上がって離れるときに邪魔をなす。引けばいいが、少し重いと座った姿勢のまま後ろに引くのは煩わしい。設計者はこの小さな煩わしさを解くために神経の細やかさをどう発揮したんだろう。答えは、肘掛を後方半分だけとする。
 こんなことまで観察することができるのは、取り壊した茶室を除いて、建築から家具、調度まで一切合切を八木家のご遺族が保存してこられ、その労の一部を今は地元の八木邸倶楽部が引き継がれているおかげ。若い頃、こうした営みに道を開いたひとりとして、とてもうれしい。

八木邸
建築概要
所在地 大阪府寝屋川市
主要用途 専用住宅
設計 藤井厚二
施工 酒徳金之助(大工棟梁)
敷地面積 1,324㎡
建築面積 253.73㎡
延床面積 376.73㎡
階数 2階
構造 木造
竣工 1930年
Profile
  • 藤井厚二

    Fujii Koji

    ふじい・こうじ/1888年広島県生まれ。1913年東京帝国大学(現東京大学)工学部建築学科卒業。13〜19年竹中工務店勤務。19〜20年欧米遊学。帰国後、同郷の武田五一の誘いを受け、20年新設の京都帝国大学(現京都大学)建築学科の教師となる。21年助教授。26年教授に就任。建築衛生学を担当。防音、防熱、通風などの科学的研究を実践するため、大山崎の丘陵地1万2,000坪を購入し、自宅を実験住宅として5期にわたって建てる。日本最初の住宅研究者として、住宅建築設計の基礎的資料を確立し、日本の気候・生活・建築材料と西洋的な空間構成とを融合させる手法を提示した。将来を嘱望されながら、38年49歳で逝去。自分のデザインした墓所に眠る。

  • 藤森照信

    Fujimori Terunobu

    建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。

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