特集

藤塚光政さんの事務所Helicoにて。背後の壁面のドローイングは、彫刻家・板東優さんの「余白」 写真/川辺明伸
建築家 室伏次郎さん、自邸(北嶺町の家)にて 「北嶺町の家」の屋上。1971年竣工以来、変化しつづけてきた。足場のパイプで外部階段がつくられ、屋上も庭園になった。その変化を藤塚さんは撮影しつづけている(写真は2020年撮影) 写真/藤塚光政

Web限定コンテンツ

藤塚光政の写真術を読む

1961年から仕事として写真を撮りはじめた藤塚光政さん。60年がたち、「仕事還暦」を迎えたと言います。隈研吾さんや藤森照信さんなどの多くの建築家に支持される藤塚写真の心得とは。『TOTO通信』を長年編集してきた中原洋さんとの共作『意地の都市住宅』(ダイヤモンド社)などのエピソードとともに、写真術を聞きました。 再生時間/5:32

2021年 新春号 藤塚光政の写真術を読む‑ インタビュー ‑僕の見方、そして撮り方

仕事で写真を撮りはじめてから、60年がたつ。「仕事還暦」を迎えたという藤塚さんの写真には、どこか編集者の視線が潜んでいる。何を撮るかというより、何を伝えるかが、撮影精神の中心にある藤塚さんに、その写真術を聞いた。

出発点は雑誌編集部

今回は本誌でも長年お世話になっている、写真家の藤塚光政さんを特集します。
 藤塚さんは雑誌『インテリア』(1960年創刊。70年に『ジャパンインテリア』と改名)から写真家としての活動をスタートされています。当時は、「インテリア」という言葉は登場したばかりで、まだ一般的にはなじみのないものだったと思いますが、こうした雑誌が刊行されたのは、どのような経緯からだったのでしょうか。

藤塚僕がこの世界に入ったのは61年4月。当時は64年の東京オリンピックの開催が決まり、今でいうインバウンド需要が大いに見込まれていた時代だった。競技施設やホテルの建設が始まり、それに伴って、建築と家具デザインを統合させる室内空間のデザインが注目されはじめたんだよね。百貨店が家具設計部を拡充したり、建築家のアトリエにも、家具専門のデザイナーが在籍していた。たとえば、吉村順三さんの事務所には松村勝男さん、前川國男さんのところには水之江忠臣(みずのえただおみ)さん、坂倉準三さんのところには長大作(ちょうだいさく)さん。
 こうした時代に、産経新聞にいた人が広告媒体として創刊したのが月刊『インテリア』でした。表紙を手がけたのは、亀倉雄策さん、田中一光さんらの日本デザインセンター。印刷所も光村印刷、東京グラビアなど一流の会社が揃えられた。B4変形判、定価550円。会社員の月給が1万2000円の時代だから、安いとはとてもいえない。まさに当時のインテリアデザインの気運の高まりを象徴するような、豪華な雑誌だったんです。

そんな時代に登場し、藤塚さんが初期から撮りつづけたのが、倉俣史朗さんですね。藤塚さんの撮影した倉俣作品の写真はいずれも有名ですが、なかでも水辺に置かれた「ミス・ブランチ」(88)や「ブルーシャンパン」(89)のイメージは非常に印象的です。倉俣さんの作品を撮影するようになった経緯や、これらの写真の意図をお聞かせください。

藤塚クラさん(倉俣さん)との出会いは63年。日建設計の林昌二さんが設計した「三愛ドリームセンター」が竣工した年です。当時、クラさんはその三愛のデザイン部に在籍し、アクリル製のショーケースをデザインしていてね。ある日、後の『ジャパンインテリア』編集長・森山和彦さんからクラさんを紹介され、取材とは別に三愛の公式写真の撮影を依頼されたんだよ。そこからクラさんの仕事をたくさん撮影するようになった。僕が65年に『インテリア』を辞めてからも、その付き合いは続いたんです。
 いくつかの作品は、湖に持っていって撮影した。湖は海と違って塩害もないし、波も少ないからね。なぜ水かといえば、それはクラさんが「重力から解放されたい」と言っていたから。それで、地球上で重力から解放されるのはやはり水中だろう、と。もちろん重力から逃れることはできないけれど、せめてイメージのなかでは、作品を重力から解放して浮かせたかった。クラさんの思想を、よりわかりやすく表現したかったんだよ。この「ブルーシャンパン」の写真はとくに気に入っています。まず「ブルーシャンパン」って名前がいいよね。想像力をかきたてる。このサイドテーブルを本栖湖に運んで、浅瀬に置いた瞬間、とんでもない光が作品に映り込んできた。まさに神がかった瞬間でした。
 クラさん本人は、僕に「ああしてくれ、こう撮ってくれ、こういうつもりでつくったんだ」ということは絶対に言わなかった。だからいつも自分で考えて、自由に撮るようにしていたよ。本当にすべてがスマートな人でした。

「ミス・ブランチ」 - 1988年

「ミス・ブランチ」 - 1988年 写真/藤塚光政

倉俣史朗さんが1988年12月の東京デザイナーズウィークにおいて発表した肘掛椅子。アクリルに閉じ込められた造花の赤いバラが空中に浮かんでいるように見え、重力から解き放たれた「浮遊」をテーマにした作品。

「ブルーシャンパン」 - 1989年

「ブルーシャンパン」 - 1989年 写真/藤塚光政

倉俣史朗さんが1989年11月にギャルリ・イヴ・ガストゥ(パリ)で開催された個展のために制作したサイドテーブル。青色のアルミパイプの脚が全体を支え、4つのビー玉の上にオパールグラスの天板がのっている。

空撮と小型カメラへのこだわり

藤塚さんが『インテリア』を退社・独立された後に改題し『ジャパンインテリア』となった同誌は、編集者の川床樹鑑さんによる連載「建築・作品と方法の追跡」を開始します。文章は多木浩二さんと植田実さんが執筆し、写真を藤塚さんと先輩の作本邦治さんが担当されていますね。そこで、藤塚さんは、長谷川逸子や白澤宏規、渡辺豊和、そして親友・毛綱毅曠ら同世代の建築家たちと出会い、現代住宅を連続的に撮影されるようになります。この連載が、本格的に建築を撮影するようになっていくきっかけですね。
また、一般的な住宅写真の撮影にとどまらず、毎年空撮も続けています。たとえば、「中野本町の家」(76)と「シルバーハット」(84)を空撮されていますが、どのような経緯があったのでしょうか。

藤塚これは『ジャパンインテリア』とは別の雑誌に頼まれた仕事だったんだよね。予算がまったくないのに、「シルバーハット」と「中野本町の家」の空撮をしてほしい、と依頼されました。困ったなぁと思ったけど、しかたないから、長いあいだかけて自分で回収することにした。それで自腹で撮影のために飛んだんです。
 すでに空撮は何回もやっていたからわかっていたけれど、それでもいざ上空から見てみると、やはり小さいなぁ、と思ったね。普通の公共建築に比べれば、住宅の規模なんてとんでもなく小さいでしょ。都内のような人口密集地域では、高度1000フィート(300m)までしか下りられない。だからその日は300㎜ のレンズを準備して撮影に臨んだんだよ。結果はそれで大正解だった。おかげで「中野本町の家」「シルバーハット」それ自体の特徴的な平面の形や、ふたつの住宅と周辺の関係性を鮮明にとらえることができたと思います。
 建築は、設計する際に模型をつくってスタディをするよね。上からの視点がよいのは、それと同じじゃないかな。俯瞰すれば大雑把でも全体のコンセプトがわかるし、何よりも、街との関係性が明確になる。頼まれればなんでも空撮するわけじゃなくて、自分が空撮のカットが必要だと判断したものを撮ってきたんです。
 ただ、空撮をずっと続けている一番の理由は、やっぱり自分が飛びたいからだね(笑)。子どもの頃からずっとパイロットに憧れていたけど、僕は足が悪かったから……。それで写真家になったんです。空撮といえば、今はドローンがあるし、確かにドローンじゃないと撮影できない場合もあると思うけど、僕はやっぱり自分が飛びたい。

小型カメラで建築を撮影することも、藤塚さんの特徴的な手法だと思います。過去のインタビューで、「建築を小型カメラで撮影しはじめたのが、68年、竹山実さんや仙田満さんの取材からだった」と話されていて、とても早くから小型を使われていたんだな、と思いました。藤塚さんが考える大判カメラと小型カメラでの撮影の違いはどのようなところですか。また、なぜ小型で撮影をするようになったのでしょうか。

藤塚小型カメラといえば、パイロットをあきらめて東京写真短期大学(現・東京工芸大学)に入学したとき、兄が買ってくれたのがキヤノンのVL(Canon VL)でした。当時会社員の初任給が1万円程度だったのに、5万5000円もする代物。これが初めての自分のカメラ。これで建築はあまり撮っていないけれど、間違いなく小型カメラが、僕の原点なんだよ。
 一般的に、建築を撮影するときは「シノゴ」(4×5)と呼ばれる「アオリ」が利く大判カメラが採用されていました。シノゴは4×5インチの大判フィルムやそれが使えるカメラのことで、建築のテクスチャーがプリントにはっきり再現できるという利点がある。アオリというのは、建築の垂直性を維持するために、レンズとフィルムの中心をずらす機能のこと。垂直性と材質感という建築の特性がはっきりするから、シノゴとアオリが建築写真の定番になっていったんです。でもこういう強い機能は、時として建築の本来の形をゆがめて写してしまうこともあるんじゃないかな。
 一方、小型カメラがよいのは、機動性が高いし、身体に一番近いところで撮れることだと思う。ファインダーを覗く目と、レンズのピントを合わせる手、フレーミングを決める脳、そしてこれらが全部決まった一瞬をとらえるべくシャッターを切る指が、全部近いところにある。瞬時に対応できるのがいいんだよ。だから小型を使うことが多くなりました。短気だしね。
 もちろん、場合によっては小型ではなくシノゴを使うこともあるし、どちらがよいという問題ではなく、何をどう撮りたいのか、そこが一番大事だと思っています。

「中野本町の家」 - 1976年
「シルバーハット」 - 1984年

「中野本町の家」 - 1976年 「シルバーハット」 - 1984年 写真/藤塚光政

伊東豊雄さんが設計した姉家族のための住宅「中野本町の家」(現存していない)。中庭を囲んだU字型の外形。その隣地(写真左)に伊東さんが設計したヴォールト屋根の自邸「シルバーハット」が立っている。

ありのままの暮らしを撮る「意地の都市住宅」

82年に中原洋さんとスタートした連載「意地の都市住宅」(雑誌『BOX』、ダイヤモンド社)では、その小型カメラを使用して建築を撮影してきた経験が、非常に生きているように思います。

藤塚これは僕にとって、すごく大事な連載でした。まさにこの企画が、僕の小型カメラによる住宅撮影を定番化したのですから。
 中原さんとの出会いは、雑誌『流行通信』の撮影のときです。室伏次郎さんの傑作「大和町の家」(74)を撮影しに行くと、その建主こそが中原さんでした。後日、掲載誌を見た中原さんが「僕の家はこんなふうに見えるの?」って喜んでくれました。それで「意地の都市住宅」を始めるときに、写真を撮ってほしい、と僕に声をかけてくれたんです。タイトルは、もちろん植田実さんが編集長を務めた月刊『都市住宅』(鹿島出版会)にあやかって。
 連載を始めるにあたって、中原さんといくつか決まりごとをつくりました。掲載するのは新築ではなく、4〜5年たって、住んでいる人の好みや生活のスタイル、あるいは何か体臭のようなものが付きはじめた住宅にしよう、と。だから撮影のために片付けたりしない。それに天候に関係なく建築は存在するのだから、どんな天気でも撮影をすることにしました。住む人が写ることだって問題ない。そして撮影は2時間以内ですませること。住んでいる人の負担になるし、なるべく自然な姿をとらえるためにも、撮影は早く終わらせたいからね。とにかく、住宅とそこでの暮らしを、ありのままに伝える連載にしよう、ということになったわけです。それにはまさに、僕の小型カメラによる建築撮影がうってつけだったんだよ。
 この連載を通して感じたのは、70年代は、本当に刺激的な住宅がたくさん生まれた時代だったということです。建築家はもちろんだけど、その家に暮らす建主たちも意欲的だった。ただ快適さを求めるんじゃなくて、誰も思いつかないような空間や新しい価値観を、建築家と建主が一緒に追求し実践したんだと思います。石山修武の「幻庵」(75)や安藤忠雄の「住吉の長屋」(76)は、まさにそういう住宅だよね。

建築写真によくある、家具やモノが何も置かれず、人の気配のない新築住宅の竣工写真を、藤塚さんは「ドンガラ写真」と言いますよね。「意地の都市住宅」が大切にされた、ありのままの暮らしを撮影する写真とは対極的なものだったと思います。しかし、そうしたドンガラ写真のほうが、建築写真においては長年主流でした。

藤塚どうしてこれが建築写真の主流になったのかはわからないんだけど、おそらく、建築家の考えが一番ストレートに出ると思ったんだろうね。住み手の個性、それこそにおいみたいなものを見せないことで、客観性を担保しようとしたんだと思います。でも、そもそも写真に客観性なんてあるわけがないんだよ。写真家がよいと思ったところを選んで撮影してるんだから。

「幻庵」 - 1975年

「幻庵」 - 1975年 写真/藤塚光政

石山修武さんが設計した茶室「幻庵」。竹や土壁などの一般的な茶室の素材ではなく、土木工事用のコルゲートシートの中に、色ガラスの丸窓、鉄の太鼓橋などを配した、工業用部品を集めた現代の茶室。

人と空間をともに写す「住宅遺産」

連載「住宅遺産 名作住宅の継承」(雑誌『家庭画報』、世界文化社)では、写真に必ず住人を入れています。そもそも企画のテーマが、名作住宅の「継承」です。現在の住み手へバトンタッチされ、住み継がれていることを表現するものですから、毎回必ず人と空間を同時に撮影していました。人と建築を同時に撮るのはいかがでしたか。

藤塚建築空間に人がいる写真を初めて発表したのは、堀口捨己さんじゃないかな。記憶があいまいだけど、茶室か何かに、和服の女性を入れて撮った写真だったような気がする。でも、狭い室内では空間が人物でいっぱいになってしまっていた。建築と人物をうまくとらえることは、建築写真にとって難しい命題のひとつです。
 ただ、だからといって、設計事務所の所員をあえて立たせたりするのは、あまりよい方法とはいえないよね。確かにスケールはわかるかもしれないけれど、やっぱりあえて人を入れるなら、ストーリーがないとダメだと思う。匿名の誰かではなく、その空間と人物の関係性を写し出すことで、それがどんな建築なのかを伝えるべきなんです。

写真家として、ジャーナリストとして

最後に、藤塚さんの写真家以外の側面にも焦点を当てておきたいと思います。藤塚さんは、写真家でありながら、最初は編集者でもありました。そのことが後の活動を特徴づけてきたのだと思います。たとえば、藤森照信さんや隈研吾さんの作品を長年撮りつづけるきっかけとなった『建築リフル』シリーズ(TOTO出版)は、藤塚さん自らが企画・編集・撮影をされていました。現在連載中の「日本の木造遺産」(雑誌『家庭画報』、世界文化社)も、藤塚さんの企画・撮影です。写真家がここまで本・雑誌の企画や編集を手がけるのは、とても稀有なことではないでしょうか。こうした活動から、藤塚さんの強いジャーナリズム精神を感じます。

藤塚僕はもともとブックメディアが好きなんだよね。生写真だけじゃダメで、やっぱり写真はレイアウトされて印刷物になって、初めて完成品になるのだという想いが強い。『建築リフル』のシリーズも、そういう想いがあってつくったものです。
 伝統木造建築を撮るようになったのは、毛綱毅曠の連載「神聖空間縁起」(雑誌『室内』、工作社)で撮影を頼まれたのがきっかけです。その後、各地に行っては古建築を観察するようになり、何百年も前の人々が何を考えてつくったのか、それを想像しながら古建築を見るのはとてもおもしろかった。でも一方で、長年多くの写真家が古建築を撮っていますが、それに対してはあまりおもしろいと思えなかったんだよね。建築物の重みや凄さに圧倒されて、写真のほうがひれ伏しているというか。空間のおもしろさや思想みたいなものを、写真が伝えきれていないと思った。それでいつか僕が撮ってやろう、と長年企画を練っていたわけです。
 どうして長年こんな活動をしているんだろう、と考えると、やはり僕のスタートが雑誌の編集部だったことが大きいのかな。たとえば、4ページの特集を担当すれば、そこでは僕が編集長になったつもりでやっていました。構成を考えながら撮影するし、自分で写真を組んでレイアウトを決める。スタッフが少なかったから、あらゆることが自分でできたんだよね。それに『インテリア』には、建築専門の部員もいなかった。歴代の編集長も、舞台美術家や写真家でした。そういう環境も手伝って、自分で建築や空間を読み込む力をつけることができたし、撮影に終始せず、どんなかたちで世に出すのかまでを見据えて撮る癖がついたんだと思います。仕事をスタートしてから60年がたつから、まさに「仕事還暦」とでも言おうか。これからもずっと変わらず、そうやって撮りつづけていきたいですね。

目と手と脳、そしてシャッターを切る指の全部が近いところにあるのが小型カメラ。
 ─ 藤塚光政

藤塚さんが愛用してきた撮影機材 写真/遠藤秀一

藤塚さんが愛用してきた撮影機材。BABY RICH-RAYは、子どもの頃に友人がもっていた子ども用のカメラ。友人に借り、幼心に撮影を楽しんだという。大人になってから、同じ機種を購入した。Canon VLは、東京写真短期大学に入学した際に兄に買ってもらったもの。脇をしめてスローシャッターを切る練習をしていたと言う。TOYOsuper GRAPHICは手持ちの大判カメラ。Nikon Fは、建築撮影用に購入した最初のカメラ。「どのレンズにも対応し、100%の視野で撮影できる」ため、愛用していたと言う。

  • 藤塚光政氏の画像

    藤塚光政Fujitsuka Mitsumasa

    ふじつか・みつまさ/ 1939年東京・芝に生まれる。61 年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。月刊『インテリア』を出版していた日本室内設計研究所に入社。63年菊竹清訓「出雲大社・庁の舎」の撮影で、写真家デビュー。65年フリーランスとなる。73年有限会社ZOOMを白鳥美雄と設立。87年Helico有限会社設立。同年日本インテリアデザイナー協会賞を受賞。2007年川辺明伸を共同主宰者とする。18年2017年度毎日デザイン賞特別賞を受賞。