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南側外観。木造と煉瓦造が混ざった中世ヨーロッパのカントリーハウスのような意匠になっている。【左:歡歸荘に茶室・也無庵を設計した建築家】吉野 弘(よしの・ひろし)1970年千葉県生まれ。94年玉川大学文学部芸術学科卒業。2001年OMAにてプラダの仕事に携わる。02年磯崎新アトリエ。11年吉野弘建築設計事務所を設立。「白井晟一 精神と空間展(群馬県立近代美術館ほか)」(10~11)などの展示デザイン多数。【右:歡歸荘の新たな住人】中森隆利(なかもり・たかとし)1945年静岡県生まれ。市立高崎経済大学を卒業後、父親の経営する日本シュバイツァピアノ入社。74年に退社し、音楽と楽器の普及をテーマに群馬県前橋市にピアノ販売会社を創業し、翌年法人化(現・日本ピアノホールディング)し、現在に至る。写真/藤塚光政

2020年 秋号 変容する住宅たち‑ CaseStudy#2‑新たに茶室を備えた洋館

作品/「歡歸荘+也無庵(かんきそう+やむあん)(茶室)」
設計(歡歸荘)/白井晟一

白井晟一の最初期の作品である歡歸荘。伊豆の旅館・白石館に建てられたが、後に移築され、八ヶ岳の山荘として生きながらえていた。さらに新たな住人の手にわたり、一部を大胆に茶室・也無庵に改修し、生まれ変わっている。

Old Photograph 伊豆古奈白石温泉・白石館に立っていた「歡歸荘」。「趣味の洋館」と言われていた。 提供/白井晟一研究所(アトリエNo.5)
村田珠光の「獨盧庵(どくろあん)」にならい、4畳半が3畳に可変する茶室 白井晟一が用いていたボールチェーンで4畳半を3畳へと仕切っている。床に掛けられた軸は、白井晟一の書「也無」。写真/藤塚光政
2階サロンの窓。西洋の城郭のようなエンブレムの装飾が付けられている。写真/藤塚光政
1階居間の窓。居間部分はもともと和室だったが、洋風の腰窓になっている。写真/藤塚光政
1階玄関前の広間。奥に色ガラスの開き窓。写真/藤塚光政

伊豆から八ヶ岳に移った幻の住宅

1937年に伊豆の名旅館・白石館の敷地内に建てられた歡歸荘は八ヶ岳への移築を経て、約80年後に一部茶室に改修され今に受け継がれています。その歩みをお話しください。

吉野歡歸荘は、旅館のオーナーが客人を招く「趣味の洋館」として、また友人の芸術家が逗留して創作する場として設計されました。2階はフランス・モンテーニュの城邸を参照しながら禅と縄文の精神性を意識したサロン空間で、外階段からアクセスできるバルコニー、暖炉とステージを備え、1階は逗留用の和室という構成です。1980年代初頭に白石館が隣接する三養荘に統合される計画がもちあがり、これに伴い歡歸荘も解体されることになりました。

中森その歡歸荘を八ヶ岳に移築したのが、2代目のオーナーとなった故・横山達雄さんです。横山さんは八王子の医者で、ジャコモ・マンズーなど美術品蒐集のアドバイスを白井晟一さんに仰いでいました。その縁で白井さんが1983年に亡くなる前に移築の了承を得たのです。解体は1986年に行われ、当初は八王子に移築して自宅にする構想でしたが、敷地面積が足りずに部材を保管していたそうです。土地探しにもこだわり、1988年に山荘として八ヶ岳に移築されました。

それから約20年を経て2010年に中森さんが3代目のオーナーとなられます。

中森私は群馬県高崎市で海外製ピアノをはじめとする楽器販売やコンサート運営の会社を営んでおり、音楽方面で横山さんと交流がありました。歡歸荘に招かれたのは2008年のことです。2階サロンのナグリが施された木材や伊豆石を積んだ重厚な暖炉など、今では入手できない素材や手仕事に感銘を受けました。それで「こんな建物なら自分で所有してみても」とつぶやいたらしいんですね。それで横山さん亡き後、奥さまからお声がけがあったのですが、そのときは、あっさりとお断りしてしまって。

にもかかわらず、所有に至った理由はなんだったのでしょう。

中森移築には億以上の費用がかかったと聞いており、到底手が届かないだろうと購入金額すらおたずねしなかったのです。しかし不動産業者にゆだねると聞き、壊されてしまうのでは、と危惧を抱きました。あらためてご相談したらなんとか私個人で都合できるとわかったのです。

訪問時に記したと思われる2階ステージのアーチ上部にある白井晟一のサイン。最初の作品らしく「ARCHITEKT S.SHIRAI」と誇らしげに記されている。写真/藤塚光政
2階サロン。ステージを上り、奥の扉からバルコニーに至る。外観同様に中世ヨーロッパを彷彿とさせる内観。写真/藤塚光政

“幻”に新たな息吹きを吹き込んで

購入後の経緯はどのようなものだったのでしょうか。

中森2010年秋に、地元の群馬県立近代美術館で「建築家 白井晟一 精神と空間」展が開催されました。訪ねたところ歡歸荘が現存しない建築として展示されている。学芸員の谷内克聡さんに「今、所有しています」とお伝えしたら、たいそう驚かれて。移築までのタイムラグのせいで、足取りが間の和室に改修されていました。

このバルコニー下に2016年に茶室が造庵されますが、名作住宅に対して大胆な発想ですね。

中森私個人で使うという考えは皆無で、みんなでこの建物の価値を共有したかったのです。そしてこの建物を私の代で終わらせず、次世代にいかにつなげるか。思案していた折に谷内さんと吉野さんたちに出会い、保存と活用の方向性を探すことになったのです。

吉野中森さんたちと、アントニン・レーモンドのトレッドソン邸(1931)やカニングハム邸(54)などの名作住宅も訪ねました。住みつづけながら美術展を催したり、あるいはカフェを併設するなど、若い世代を中心に人が集まる仕掛けがあることがひとつのヒントとなりました。そして行き着いた答えが、茶室です。

洋館とうたわれた建物に対し、なぜ茶室だったのでしょう。

吉野文化的に親密な交流を図るなかから未来につなげれば、というのが中森さんのお考えでした。2階のサロンは西洋的な集いの場。それを日本文化で翻訳した空間が1階の茶室です。

その茶室は4畳半を基本とし、3畳間にも展開できるユニークな構成ですね。

吉野茶会を催したい、いや、少人数で夜咄もしたいというさまざまな声があり、そこで千利休にならった4畳半の基本形をつくり、そこに村田珠光の可変茶室「獨盧庵(どくろあん)」を重ね合わせ3畳小間へと可変するという構想を思いつきました。完成を白井晟一のご子息の昱磨(いくま)さんにご報告させていただいた際に、白井晟一の書「也無」を見立ててくださり「也無庵(やむあん)」と命名しました。

小間として使うときは、2種類のしつらえがありますね。

吉野垂れ壁に簾をかけ、一部丈を短くして茶道口に見立てています。もうひとつのしつらえが、白井晟一が親和銀行・懐霄館(かいしょうあん)(75)で採用したボールチェーン。床の間も可変でガラスの積層板をのせて雰囲気を一変させます。

木毛セメント板を土壁に見立てたり、床の間の地板にピアノの古材を使うなど、融通無碍な素材使い・意匠も印象的です。

吉野白井晟一の建築に新たなコンテクストを加える以上、揺るぎない芯を設けたく、現代的な侘びを目指しつつ中森さんの個性が宿る意匠を考えました。腰壁にはお好きなシューベルトのセレナーデを裏擦りした和紙を。床柱の赤松もピアノに使われる材です。群馬で教室をもたれるご宗家にもプランを見てもらったところ、茶器が割れることを想起させる素材は厳禁とのご指摘を受けましたが、ボールチェーンは白井晟一へのオマージュかつピアノの弦を想起させるモチーフなので、どうしてもやりたかった。ふっきれて前に突き進みました。

変容のポイント
洋と和、それぞれの集いの場

ピアノの演奏会が催されている2階のサロン 提供/中森隆利
お茶会が催されている1階の茶室 提供/中森隆利

2階のサロンは西洋的な集いの場、1階の茶室は日本的な集いの場。それぞれに適したイベントが催されている。

想いと建物を次につなげる

現在のメンテナンス状況や催しについて教えてください。

吉野移築時の施工がよかったため、とくに手は入れておらず、中森さんたちが定期的に訪れ風を通してくれています。温暖な伊豆から降雪のある土地に移ったので水が溜まりやすい箇所があり、ドレンの修理を検討しているくらいですね。

中森活用のほうは別荘地内の八ヶ岳高原音楽堂(設計:吉村順三)ともご縁ができて、連携しながら年に数度、2階で音楽を聞く集まりや、1階で顔の見える規模で茶会を開いています。白井晟一についても説明をして、建物の価値を堪能してもらっています。

訪れた方々は2階のサロンについてどのような感想を抱かれますか。

中森暖炉やステンドグラスなど当時の意匠に素直に感動されますね。なんだか落ち着く……とナグリが施工された柱をなでる方もいらっしゃいます。

吉野白井晟一がドイツ留学から帰国し、方向性を模索していた時期の設計なのですが、設計中には禅僧との出会いがあったり、1950年代半ばに議論を呼んだ論考「縄文的なるもの」を執筆するインスピレーションにもなった韮山の江川家住宅を訪れています。ヨーロッパで体感した信仰や哲学や空間性と、日本の縄文的な力強さや禅の精神性など、その後のエッセンスが結実する兆しを個人的には感じています。

中森そんな歡歸荘の移築を白井さんが許可したことが、私は最も大切だと思っているんです。ご自身で評価していなければ壊されるままに任せていたことでしょう。その白井さん、前オーナーである横山さんの想いをつなげたい。建築はきちんと手をかければ、人間よりはるかに長い時間を生きることができます。この建物をきっかけに、音楽・茶道・建築など多分野の人々が集い、ネットワークが生まれ、次につながる萌芽になればと思っています。

4畳半を3畳間の小間へと錆竹の簾で仕切っている。写真/藤塚光政
1階の茶室「也無庵」。仕切りを設けない4畳半の状態。外部からは煉瓦のアーチをくぐって茶室に至る。写真/藤塚光政
床の間。白井晟一による書「也無」。床板にはピアノの鍵盤に見立てたアクリルの積層材を据えている。写真/藤塚光政
茶室の壁面と腰貼り。壁は木毛セメント板だが、土壁のように見える。腰貼りはピアノ業を営む施主に合わせ楽譜にしている。写真/藤塚光政

まとめの文和と洋を備えるふくよかな包容力が、
継承につながった

 建築でありながら、建築とは一線を画した不可思議な存在、それが住宅だ。人の営みに最も深くかかわりながら、住宅はしばしば建築というジャンルにおいて特殊な位置付けをされる。たとえば住宅設計を中心に手がける建築家が、時に「住宅作家」と、ことのほか孤高な響きをはらませられるのはその現れともいえるだろう。住宅は、個人に帰結するきわめてプライベートな存在なのだ。その善し悪しの価値判断を下せるのは、設計者やメディアでもなく、日々そこで暮らしを営む建主で、それゆえに住宅はある種、閉じた価値観のなかに身を置いている。

 また一方で、住宅の存続を担うのも建主という一個人である。莫大な相続税や変わりゆく住様式への対応など、住宅という小さな存在が生きつづけるために背負うものは、公共建築に比してはるかに大きい。しかし住宅を取り巻くそのような危うさをものともせず、歡歸荘はさらなる時を紡いでいる。

 場所を変え、三度持ち主を変えただけではない。茶室という大胆な解釈を新たな魅力として受け入れ、なお本質を損なわない強靭さとしなやかさを歡歸荘はもっている。それには2階が洋、1階が和と、明確に様式が分けられた空間構成も下地となっているのだろう。ゴシックや縄文、西洋哲学や禅などのエッセンスが融通無碍に横溢する2階は、人や時代によって異なる価値の発見を引き出す。そして2階から受けたインスピレーションを、汎用的な生活空間として想定され改築の余地を残していた1階に新たに具現化できる。こうした構図が、白井晟一という芯はそのままに、時代ごとに用途を変えることを可能としてきたともいえる。

 歡歸荘は遠い将来、ギャラリーなどさらに用途を変える可能性もあれば、在りし日のように個人の山荘として使われるかもしれない。そんな想像を受け入れるふくよかな包容力こそが、時を超えて継承され、未来を切り拓く住宅遺産ならではのポテンシャルを示しているのではないだろうか。

東側2階外観。写真/藤塚光政
  • 白井晟一氏の画像

    白井晟一Shirai Seiichi

    しらい・せいいち/1905年京都府生まれ。28年京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科卒業後、渡独。ハイデルベルク大学、ベルリン大学で哲学などを学ぶ。60年ヨーロッパを巡り、ゴシック建築などと接する。戦前は住宅、戦後には縁のあった秋田・湯沢で公共建築などの数々の仕事を得て、活動の幅を広げる。83年逝去。
    写真/白井彪弼