特集

「旧作田家住宅」平面図

2019年 春号 客を招く間取り‑ インタビュー‑忘れられた客間
─ 接客の間取りを振り返る

 床の間のある座敷、洋風の応接間、そういった客間のある住宅は少なくなってきている。それらはなぜなくなっていったのか。接客の間取りの変遷を、建築史家の内田青藏氏に聞いた。

かつては客を招く場所が重視されていた

大井日本の伝統的な住まいを思い起こせば、床の間のある座敷や格式の高い玄関など、接客のためのさまざまな工夫がありました。まずは、その原点ともいえる、江戸時代以前の武士の住まいにおける接客について、お聞かせください。

内田みなさんが自宅に誰かを招く場面を考えてみてください。たとえば会社の人であれば、上司よりも部下を招くことが多いと思います。ところが、武士の社会は逆です。忠誠や上下関係の絆の確認のため、上司が部下の住まいをしばしば訪れました。失礼があってはいけないので、部下は最大限のもてなしをしたのです。そのため、間取りも接客を重視したものでした。
 環境のよい南側には主人や客が使用する客間座敷、家族団らんの場や台所は北側という方位に対応した間取りが出現するのは、武家住宅でも幕末以降でした。一方、伝統的な住まいには、客向けの「ハレ」と家族向けの「ケ」の場とのあいだに明確な区分がありました。また、ハレの場だけ見ても、玄関を起点とした「手前」と「奥」の関係があり、最も格式の高い座敷は玄関から見て一番奥にあることが多いようです。玄関で出迎えをし、客間へと客人を導いたわけです。

大井そうした構成は民家の間取りにもあてはまりますね。たとえば、川崎市立日本民家園に移築されている「旧作田家住宅」(江戸時代中期/ 平面図)は九十九里の鰯漁で網元を務めた大きな家で、土間への出入口とは別に「ゲンカン」があり、最も格式の高い「オク」へと続きます。縁側の先には客用の「フロバ」と「ベンジョ」があり、このエリアで接客が完結します。
 あるいは町家でも、庭側に座敷が配置されているものをよく見かけます。「旧松下家住宅」(江戸時代末期/平面図)は、金沢のはずれで種物屋や茶店を営んだ家で、規模は大きくありませんが、一番奥の「ざしき」には床、棚、付書院が揃い、最も格式の高い部屋になっています。この「ざしき」は19世紀後半の改造だそうです。

内田そうですね。とくに藩の役人を迎えるような上流層の民家では、この構成がよく見られますし、明治時代に入ってもすぐにはくずれません。
 明治中期頃の状況がよくわかる例として、「森鷗外・夏目漱石住宅」(通称「ネコの家」、1887年頃/ 平面図)を紹介します。間取りを見ると、まず主人や客人が使う「玄関」があり、その北側の「炊事場」には家族や使用人の使う勝手口があります。
「玄関」の南側は主人の「書斎」で、その先は南側が続間座敷、北側が「使用人室」や「茶の間」です。「書斎」には主人の親しい友人も招かれましたから、南側に客を招く「ハレ」の場が配置されているんです。
 さらに一番奥の南側は主人の「寝室」で、北側の「六畳」は子どもの寝室になっています。要するに、環境のよい南側を主人や客が使っている。家はまさに主人とその客のものだったわけですね。

家族のための間取りへと、徐々に変化していく

内田ところが大正時代に入る1910年代になると、住まいが家族のものだと認識されはじめます。接客本位から家族本位へと変わりはじめるのです。北側にあった「茶の間」などの家族の部屋を南側に配置する例が出てくる。その際、客間座敷が奥にあると、お客さんと家族の動線が混乱しますから、次第に客間は玄関側へと移動してきます。時代が後になりますが、1934年竣工の「佐々木邸(旧同潤会江古田分譲住宅)」(平面図)や「小林古径邸」(設計:吉田五十八/平面図)の間取りと比べてみてください。

大井確かにそのとおりですね。「佐々木邸」は大学教授の家でしたが、「客間」が手前で「茶の間」が奥にあります。「洋間」と合わせて、接客のスペースが住まいの手前で完結しているようです。「小林古径邸」は有名な日本画家の家ですが、「居間」や「茶ノ間」が奥にあり、「客間」は「書斎」を通りこして一番手前にきています。

内田ちなみに、日本では同じく1910年代以降に2階建てが一般化するといわれています。なかには1階を家族の部屋に譲り、客間を2階へ上げる例も登場してくる。2階からのダイナミックな眺望で客をもてなすわけです。客間は、奥から手前へという流れに加え、下から上へという流れもあったのです。さきほど江戸期の民家の話が出ましたが、それまで2階は収納や使用人の部屋に使うことが一般的でした。一方、実際の使い方はわかりませんが、「小林古径邸」は2階にも座敷があり、客の動線もスムーズですね。

大井「小林古径邸」や「佐々木邸」を見ると、客の使用できるトイレの位置も変わってきたようです。

内田「旧作田家住宅」や「ネコの家」では、縁側の先にトイレがありますが、「小林古径邸」では玄関脇に配置されています。これなら、プライベートな家族の部屋を通らずとも、トイレに行けますね。もちろん、においや衛生の問題があるので、浄化槽や下水道、水洗化といった技術と一緒に考える必要がありますが、その改良とともに、配置は自由になっていったのです。

洋風の応接間やホールも取り入れていた

大井ところで、「佐々木邸」では玄関脇の部屋が「洋間」となっています。ここには、ソファやテーブル、椅子が置かれ、応接の場として使用されていたようです。大正時代以降、中流層の住宅でも玄関脇に洋風応接間を設けた事例が散見されるようになります。

内田その傾向を知るには、明治20年代から流行しはじめる「和洋館並列型住宅」に触れる必要があります。明治時代に入って天皇は洋装を採用しましたが、その行幸に際して、お迎えをする人人が洋装にふさわしい接客の場として、洋館を建設していきました。これが生活の場である従来の和館に並んで建てられたことから、「和洋館並列型住宅」と呼ばれています。東京・湯島にある「旧岩崎邸」(1896年)などはその形式の代表例です。やがて、洋館がある種のステータスになり、規模を縮小しながら中流層の住宅へも広まる。今見ると木に竹を接いだようで違和感がありますが、この違和感こそ重要だったのです。
 もちろん、この頃の男性はすでに洋装を取り入れていましたから、主人の使用する部屋が洋風になった、という意味もあるでしょう。あるいは明治20年代になると海外経験のある人が書斎だけ洋室にする例もぽつぽつ出てくる。これらの傾向も踏まえつつ、「和洋館並列型住宅」の行く末にあるのが、「佐々木邸」の間取りですね。

大井そもそも日本で洋館が建設されるようになったのは幕末ですが、日本の伝統的な住まいとは玄関のつくり方が違いました。日本人は玄関で靴を脱ぎますが、欧米人は基本的に靴のままです。たとえば、神戸の「旧ハッサム家住宅」(1902年/平面図)を見ると、広い「ベランダ」があり、縦長の大きな「ホール」に靴のまま入ります。

内田「旧ハッサム家住宅」は、インド系イギリス商人の住まいですね。玄関ホールについて考える際に大切なことは、単なる入口ではなくて、人が滞在する場所だということです。訪れた客の出迎えはもちろん、応接室から食堂へ移る際に待機してもらい、準備ができたら主人がまた案内する。「旧ハッサム家住宅」ではないのですが、ほかの洋館の「ホール」では、ソファを造り付けたり、椅子を置いたりする例もあります。日本にあるとはいえ、イギリス人の住まいですから、イギリス式の接客文化が反映されている。ただ、この間取りにあるような玄関ホールは、日本人の住む中小規模の洋館ではあまり一般化しませんでした。単純な移動のための廊下だと思われたのか、面積が小さくなっていきます。

間取りの合理化を選択し、接客を追い出す

大井玄関ホールが小さくなっていったのは、合理化の過程ともいえるでしょうか。

内田そうですね。1910年代になると、都市部の中流層に合理的な生活を求める人々も現れてきます。もともと住まいの出入口には主人や客人が使用する表玄関、家族が使用する内玄関、使用人が使う勝手口という身分に応じた使い分けがありました。小さい住宅では困難ですが、玄関は格式の表現にも使用されたのです。「旧作田家住宅」の間取りを見るとよくわかりますね。ところが、合理的な生活を求める人人は、身分に応じた出入口の使い分けを批判しましたし、面積の無駄だとすら言いました。
 家族が客と同じ玄関を使うようになると、お客さんが来たときに靴が散らかって困りますから、下駄箱もこの頃から設置されるようになります。要するに、実用本位へと舵が切られていく。さきほど見た「小林古径邸」にも下駄箱がありますね。
 また、戸締まりを厳重にしようとした結果、建具の種類も引き戸から扉へと変わっていきます。本来、本格的な洋館、たとえば「旧ハッサム家住宅」では扉は内開きなのですが、小さな玄関では靴がじゃまになるので外開きに変わっていく、という流れもあるんです。ある種の合理化の影響ともいえると思います。現在ではほとんどの玄関が外開きですね。これは接客を考えるうえでは、きわめて重要な変化です。内開きは、人を招き入れる行為の象徴ですから。

大井食堂や台所も合理化されていきますね。たとえば、台所作業の合理化も、やはり1910年代から注目されてきたようです。

内田さきほどイギリスの接客文化について触れましたが、イギリス系の住宅を見ていくと調理の場と接客の場を離す傾向があったようです。食事のときににおいや音が食堂へ伝わってはまずい。「旧ハッサム家住宅」も「厨房」は外にありますね。
 ところが、住宅の合理化という点では、日本はアメリカの影響を強く受けています。1910年代以降、都市中間層の住まいとして中小規模の洋館が建設されていきますが、その多くがバンガローなどのアメリカ系の住宅をモデルにしていました。そこでは、料理を運ぶ手間が省かれたのです。日本人としては海外の文化(イギリス)よりも合理化の思想(アメリカ)のほうが理解しやすかったのでしょう。結果的に、食事の場と台所が隣同士に配置され、ハッチも取り付けるようになります。部屋の移動なしで料理を出し入れできるハッチは合理化の象徴ですね。もちろんイギリスにもハッチはあります。しかし、食堂と台所のあいだではなく、配膳室と台所のあいだに多いようです。台所と食堂のあいだの壁にハッチという穴があく。その穴が大きくなれば、やがては同じ部屋になってダイニング・キッチンになる。ひどい言い方ですが(笑)。

大井確かに、「佐々木邸」にはハッチこそありませんが「台所」と「茶の間」が密接な関係をつくっていますし、「小林古径邸」は「台所」と廊下のあいだにハッチがついています。
 日本においてダイニング・キッチンは、浜口ミホなどの建築家が戦前から採用していますが、一般化するのは戦後に住宅公団が採用してからといわれています。いかに狭い面積で暮らしを成立させるか、という意味合いが強かったと思います。
 戦後になると、洋風応接間のスペースも子ども部屋にとってかわられたりして、いよいよ接客のための部屋が消えていく。浜口ミホが手がけた「栗田邸」(現存せず、1950年代前半/ 平面図)を例にとると、小さな「玄関」から直接「居間(食堂)」に入り、食卓がそのまま「台所」の調理台になる。いわゆるLDKの間取りです。まだ畳の部屋はありますが、客間ではありません。きっと客も、この「居間(食堂)」で家族の一員のように過ごしたのでしょうね。

内田親密な接客でもない限り、なかなかこの「居間(食堂)」へは入れないでしょう。簡易な応接であれば「玄関」ですませ、それ以外はホテルやレストランでしょうか。

大井当時としては、新鮮な間取りだったと思いますが、今では客を通す場所が居間、つまりリビングしかないというのは、むしろ一般的ですね。

内田住む人にもよるでしょうが、伝統的な住まいがもっていた社会的な機能が追い出され、住まいがどんどん閉じていく。もっというと、その居間・食堂でさえ、夫は帰宅が遅く、子どもは子ども部屋に閉じこもり、誰もいない場所になってきた。戦後の圧倒的な住宅難のなかでは、面積との格闘も重要な意味をもちましたが、はたして今もその延長線上で住まいを考えるべきなのか、大きな疑問ですね。

再び、客を招くために

大井接客が住まいのなかから追い出されていった影響は多岐におよんでいると思います。家事なども変化したのではないでしょうか。

内田たとえば掃除ですね。今は回数も減り、たまにお客さんが来るときに大掃除をする人も多いと思います。極端な例ですが、その果てにあるのがゴミ屋敷です。あれは完全な個人主義で、接客という行為が消滅しています。私たちはきっと、そこへ近づいていっている。住宅は接客の場から家族の場になった。それを再びもとに戻すことは主張しないし、不可能だと思います。しかし、客を招く行為を再評価していかないと、われわれの住文化は悪いほうへと転がりつづけますよ。

大井おっしゃるとおりで、私の家もお客さんが来る前の日は大掃除です。しかしそのたびに、来客が増えれば環境は変わるぞ、という実感もあります。そのためには、何か客を招くヒントがあるといいのですが。

内田「小林古径邸」や「ネコの家」もそうですが、芸術家や小説家の家が参考になるかもしれません。一日中家で仕事をしている人たちの家です。掃除するかどうかは別として、飽きないようにいろいろ気分を変えられる場を家の中につくっている。普請道楽はお金持ちの話だと思われがちですが、一生に1回だって、最高のものができれば普請道楽です。たとえば、極端な例ですが、家の半分がお風呂だとかね(笑)。冗談半分とはいえ、友人たちはもちろんのこと子どもや孫が遊びに来る頻度が増えそうな気がしませんか。住まいも接客も、やっぱり楽しいものでなければ。
 それから、今若い人たちが町家や農家を買ってリノベーションをしています。彼らは伝統回帰というよりも、新鮮な眼差しでそれらを見ている。現代の生活を知った人が、かつての接客文化に根ざした住まいに手を加えて暮らす。そんな間取りにも、再び客を招くための重要なヒントがありそうです。

  • 内田青藏氏の画像

    内田青藏Uchida Seizo

    うちだ・せいぞう/1953年秋田県生まれ。75年神奈川大学工学部建築学科卒業後、東京工業大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程などを経て、95年文化女子大学家政学部(現造形学部)助教授。97年同大学教授。2006年埼玉大学教育学部助教授。07年同大学教授、東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科教授を兼任。09年より神奈川大学工学部建築学科教授。博士(工学)。主著に『日本の近代住宅』(鹿島出版会、1992年)、『「間取り」で楽しむ住宅読本』(光文社、2005年)など。

  • 大井隆弘氏の画像

    大井隆弘Ohi Takahiro

    おおい・たかひろ/1984年東京都生まれ。2006年三重大学工学部建築学科卒業。09年東京藝術大学大学院美術研究科建築学専攻修士課程修了。15年同大学大学院博士課程、同大学教育研究助手を経て、17年より三重大学大学院工学研究科建築学専攻助教。博士(美術)。主著に『日本の名作住宅の間取り図鑑』(エクスナレッジ、15年)など。