特集

2018年 夏号 移築のすすめ ‑ インタビュー ‑白井晟一の
「顧空庵(こくうあん)」移築録

移築の設計者/白井晟一建築研究所 白井原太
解体した人/風基建設・代表 渡邊 隆
解体した人/風基建設・「顧空庵」担当の現場監督 小倉英世

 東京都世田谷区上野毛にあった白井晟一設計の「試作小住宅」(1953)が、2007年、秋田県湯沢市に移築され、「顧空庵」という名のゲストハウスに生まれ変わった。その移築の設計を担ったのは、孫・白井原太さん。そして、移築の肝となる解体を行ったのが、文化財の移築に慣れた風基建設だった。白井さん、そして風基建設代表の渡邊隆さんと担当者の小倉英世さんに、当時の経験とともに移築の可能性について話を聞いた。

東京から湯沢に移築された小住宅

「顧空庵」は、秋田県の湯沢において江戸時代から代々医師であった渡部(わたなべ)家の子どもたちが、上京して学生時代を過ごすため、東京都の上野毛に建てられた小住宅です。1953年、湯沢と縁のあった白井晟一の設計により、つくられました。
 それが10年ほど前に、湯沢に移築されることになったわけですが、どういう経緯だったのでしょうか。

白井原太(以下、白井)湯沢の医師・渡部三喜(さんき)先生から、依頼がありました。もともとこの住宅は、渡部先生のご両親が、祖父(白井晟一)とつくった住宅なのですが、先生のお母さまが2004年に亡くなられたのをきっかけとして、渡部家の親族会議でどうしても手放さなければならない、という話になったのだそうです。

「顧空庵」が立っていた上野毛は高級住宅地ですから、土地の値段が高く、当然売却する話も出てきますよね。

白井ただ、築50年以上の住宅ですから、残念ながら普通に売却したら、おそらくこわされてしまいます。そこで、完全にこわすのはしのびない、ということで、06年に渡部先生から相談を受けました。
 最初は、この住宅をこわさずに住み継いでくれる人を探したのですが、見つかりませんでした。先生は一度はあきらめて、こわすつもりでいたのですが、最後に別れの1泊をしたところ、ご両親のことや学生時代のことを思い出され、なんとか部分的にでも残したい、と決意されました。

それで、移築という道を選んだのですか。

白井最初は、建具などの一部を残せないか、というくらいの話でした。ただ、この住宅は、今も僕たちが使っている白井晟一建築研究所の事務所「アトリエNo.5」(1952)と同時期の仕事でして、素材やディテールに共通するところがあり、僕自身も想い入れが強くなっていったんです。それで、できる限り残したいという話になり、ちょうど湯沢に場所があるとのことで、移築することになりました。

文化財に慣れた風基建設との協働

いよいよ、移築のチームづくり。

白井渡部先生には、地元のいろいろな職人とのつながりがありましたから、その職人たちに声をかけ、見積もりをとっていました。一方、僕は知り合いの松井郁夫さん(木組の家づくりを得意とする建築家)に移築に慣れた風基建設さんを紹介していただいていました。
 その結果、東京での解体を風基さんが行い、湯沢での組立てを、渡部先生の発注で地元の職人集団が担うことになったのです。

風基建設は、故・田中文男棟梁が率いた真木建設の後継にあたる会社です。渡邊さんは田中棟梁の頃から、新築だけでなく、社寺や文化財の修理現場の設計や監督をしてきましたが、移築も手がけてきたのでしょうか。

渡邊 隆(以下、渡邊)文化財の社寺や民家など、大工の設計施工でつくられた建物の移築を手がけることはあります。この住宅は、建築家とのコラボレーションによるものづくりという点に興味がありました。今までの仕事とは異なるパターンで、おもしろそうだと思ったのです。

小倉英世(以下、小倉)過去にも、既存建築の解体と材料の運搬だけの仕事を手がけたことがありました。メインの作業が2週間くらいで終わる短期間の仕事なんです。

解体や運搬だけを手がけるという、分業のメリットはなんでしょうか。

小倉後々のメンテナンスのことを考えると、組立ては、移築先の職人に任せるのがベストだと思います。ただ、材料のことは実際に解体した人がよくわかっていますから、同じ人が組み立てたほうがよいのでしょうが、今回は組み立てる大工は決まっていたんですよね。

白井決まっていました。そこに、僕は少し不安がありました。移築は、初めての経験でしたから。解体した人と組み立てる人が異なるときに、はたしてうまくバトンタッチできるのだろうか。ただ、ふたを開けてみると、解体後の材料が風基さんによって非常にわかりやすく整理されていて、スムーズに引き継ぎができました。

組み立てやすいように解体部材を整理しておく

どのように整理したのでしょうか。

小倉まず、白井(晟一)さんが描いた当時の図面のコピーをもとに実測調査をして、現状の図面を描きます。スケッチを描いて、CAD化しました。元の図面では細かいところまでは描かれていないので、補完をする必要がありました。その図面をもとにして、部材表もつくります。部材表を見れば、材料が全部で何本あるか、わかるようにしておくんです。

それぞれの部材が、図面と照合できるように番付もつけるのですか。

小倉解体番付をつけます。ただ、新築のときのように材料に墨書きするのではなく、番付札を釘で打ちつけます。部材が汚れているので、墨で番付を書くことができないんですよ。

図面と部材表があって、実際の材料には番付がついている。

渡邊建物をつくるとき、今は部材の数量を出して積算しないといけません。そのとき、図面と構成部材の数量がわかる部材表が大事になるんです。ここに、各部材の煩雑な情報を盛り込むことができるし、新しい材料や、補修しなければいけない材料の数量もわかります。部材表がないと、次のステップにいけないんです。

白井僕自身も、写真や図面で元の状態を記録していましたが、風基さんの整理によって、うまくバトンタッチができたのだと思います。風基さんと現地の職人が直接話す機会はありませんでしたが、問題なく、仕事が進みました。

整理しているあいだ、部材はどこにあったのでしょうか。

小倉千葉県流山市にある風基建設の工場に移して、整理をしました。そこで、材料の掃除や既存の釘を抜いたりします。運搬中にどんどん傷がついてしまいますから、移築の際、釘は必ず抜きます。また、抜いておかないと、施工するときに鑿(のみ)が釘に引っかかって、どんどん欠けてしまうんです。

白井現地の大工の道具を悪くしないように、という配慮なんですね。

渡邊古い時代の建物ほど、釘が少ないので解体しやすい。明治時代以降になってくると、どうしても釘が多くなってきます。継手・仕口だけでつくられた建物のほうが簡単です。取りはずせるようになっているから、あっという間に解体できてしまいます。釘の処理は、最近建てられた木造を移築する際の注意点です。

すべての部材を現地に運ぶ

移築の際に、すべての材料を転用できるわけではないと思いますが、「顧空庵」ではどのくらい再利用できたのでしょうか。

白井何をどう残すのか、最初は漠然としていました。そこで渡部先生と相談して、各部材を書き出した表に、保存したい希望をまとめていきました。「◎」は最優先、「○」は優先、「△」は状況次第、「×」は不要、というように。たとえば、柱や破風板などの見える部材は「◎」、間柱や根太などの見えない部材は「○」、構造金物は「△」、設備機器は「×」。この情報を先生とともに、現地の棟梁とも共有しました。状態はよかったので、希望の部材はほとんど再利用できています。

風基建設の側でも、再利用できるかどうかを判断したのでしょうか。

小倉基本的に木部に関しては、全部の材料を現地に運んでいます。一般的には、見えない場所に使う野物(のもの)材は、移築の際に更新することが多いのですが、このときは野物材も持っていっています。

白井壁下地の木摺りも、パネル状にはずして持っていきました。結局、木摺りは使いませんでしたが、新しくつくるときの参考になりました。

小倉再利用するかどうかは現地判断に任せ、とりあえず全部運ぶのが、僕らの仕事でした。

白井13.5t積みのトラックを満載にして、1台で運びました。

1台ですか。住宅の規模だと、そのくらいの量なのですか。

小倉平屋の小住宅ですからね。

木部だけでなく、土壁の土まで再利用されていますよね。

白井内部の土壁を解体時にかき落として再利用しています。ただ最初は、その土と混ぜる骨材の砂を現地で調達したのですが、オリジナルのくすんだ渋さは出ずに、すごく明るい色になってしまったんです。砂は東京から送ると大変なので、現地調達しようとしましたが、うまくいかなかったのです。もともと上野毛で使われていたのは、どうやら関東の利根川あたりの砂だとわかったので、急遽、利根川の砂を使って、風合いを再現しました。

渡邊関東では、粘土質の土の中塗りで終わらせることが多く、関西のように、色土を最後の仕上げにすることは少ないんですよ。だから天然の土の色が、そのまま壁の色に出ます。天然の色ですから、いつも同じ色になるわけではありません。

小倉文化財の現場ですら、中塗り仕上げの色を完全再現するということは求められません。

渡邊土の色のままだから、意図的に再現することは難しい。ただ一方で、京土壁だと、産地も色も再現するんです。

なじませるか差別化するか

そういった再利用を進める一方で、更新したところもありますか。

白井文化財の保存ではありませんから、必要なところは更新していく、という方針でした。もちろん基礎は打ち直していますし、屋根の板金や設備機器も新しくしています。
 それと、積雪地帯に持っていくわけですから、屋根まわりの部材も更新しています。たとえば野地板もいたんではいませんでしたが、透いているところもあったので使っていません。代わりに、木摺りの下地に転用しています。

小倉屋根まわりといえば、桁の端部が細くなっていて、軒が薄くできていますよね。

渡邊最初に見たとき、まっさきに驚いたところです。軒の出が深いけれども、移築したら雪で折れてしまうのではないかと心配でした。

白井この桁は、材料を取りかえるわけにはいかないので、積雪加重がかからないように、融雪シートを軒先に入れました。後は、人為的な雪下ろしを徹底するしかありません。垂木などの部材を太くすることも検討しましたが、渡部先生と「オリジナルを残す」と判断しました。

水まわりのところを、少し増築していますね。

白井元は、台所から直接浴室に入るプランだったので、脱衣室を設けています。一緒に台所も広くしています。このときは、台所の継ぎ足し部分を既存部分の色と揃えたりして、増築を感じさせない増築を目指しました。
 当然床も増えるのですが、アピトンという当時と同じ材料を用いています。この住宅は、構造材が杉、造作がラワン、床がアピトンとほとんど材料が統一されているんです。

「顧空庵」は増築したところが既存部となじむようにしていますが、文化財の修理や移築だと、新しいものを意識的に差別化することもあります。

小倉どこを修理したのかが、わかるようにしてあるんです。今よりも新しい技術や思想が出てきたときに、オリジナルの部分がわかるから、後の人が更新しやすい。だから、木造を鉄骨で補強することもある。

渡邊ほとんど言い訳です。鉄骨にするときの。なじませなくてもいいけれど、もっと融合したデザインを考えてほしい、という気持ちにはなります。そのあたりは、センスが問われますね。

なぜ移築するのか

「顧空庵」は白井晟一が設計した建築ということもあり、特殊なケースかと思いますが、移築をしたのはなぜでしょうか。

白井祖父が設計した建築ということだけでなく、渡部先生にとっては家族の歴史として、かけがえのないものです。先生は、先祖の系譜を書籍にまとめるなど、家を重んじている方なので、ご両親がつくり、一家が長年過ごしてきた思い出を大切にされてきたんです。そういう想いがあったから、古い建物を再利用する苦労をのりこえることができたのだと思います。

小倉一般的に古民家を好きな人が増えていますね。古民家の共有バンクなどで、民家を譲りたい人と譲り受けたい人をマッチングさせて、移築が行われることが、よくあるかと思います。

風基建設では、文化財以外にはどのような移築を担ってきましたか。

渡邊たとえば、建主のふるさとの山梨から、現在の住まいがある横浜に民家を持ってきたりとか。やはりこれも、その方のふるさとへの想いがあって、残したいということでしたね。
 後は、裏千家出入りの数寄屋大工・木村清兵衛がつくった茶室。いつか移築しようということで解体したのですが、材料がまだ倉庫に収納されたまま、という仕事もあります。

小倉一緒に立っていた待合は小さいから、クレーンでそのまま吊り上げて、トラックにのせて、倉庫まで運びました。まだ倉庫にあるので、いつか日の目を見るとよいのですが。

茶室のような名物は、昔から移築されてきましたよね。

渡邊茶室はプレミアがつきやすい。とくに「如庵」(1618)が有名ですね。京都の建仁寺、東京の三井家本邸、神奈川の大磯別荘、そして今は愛知の犬山ホテルの敷地内に移築されています。

白井強い想い入れがある場合、あるいは民家や茶室などにひかれている場合がほとんどだと思うのですが、移築が、もう少し一般的な選択肢にならないかと思っています。

移築のハードルはそれほど高くない

移築が一般的な選択肢になっていないのは、なぜでしょうか。

渡邊一番は、お金がかかるということでしょう。解体費と運搬費が余計にかかるわけですから。

白井特別価格にしていただいた、ということもあるかもしれませんが、「顧空庵」での風基さんの仕事なら、解体と運搬とで、おおよそ新築の総工費の2~3割くらい。部材のほとんどを再利用することができました。移築は、新築の2倍というようなイメージがあるなかで、それほど高いハードルだとは感じませんでした。しかも、職人が減っているとはいえ、まだ風基さんのような丁寧な仕事ができる人たちがいるなかで、コストだけで敬遠されているとしたら、すごくもったいないことだと思うんです。

渡邊昔、住宅展示のために、1カ月の工期で住宅を建てたことがありました。その新築の工費が2000万円でした。その後、それを解体して別の場所に移築したのですが、そのときの工費が1200万円。軸部は、そのまま転用して、漆喰を塗り直し、屋根材を変えました。新築より安くできたんです。

小倉運搬費と解体費も込みで、6割ですよ。

渡邊移築するのは最初からわかっていたので、当然、移築しやすいように組みました。床板もパネルにしました。

同じ人が新築と移築を担うのは特殊な事例かもしれませんが、新築時に移築を想定しておく、というのは、ひとつのノウハウですね。

渡邊あまり考えられていないことですが、可能性はあると思います。ただ、特別なことをする必要はなくて、真壁の木造なら、自然と解体しやすい構造になっていきます。日本の木組は、本来はそういうシステムでできているんですから。

白井移築は現実的に不可能なものではないのに、ハードルが高いという認識ばかりが広がっているような気がしています。だから、ノウハウとともに、移築を選択肢に入れる感覚が育っていってほしいですね。想い入れのある建物を残したいという感情は、特殊なものではなく、多くの人が抱くものだと思います。

  • 白井晟一氏の画像

    白井晟一Shirai Seiichi

    しらい・せいいち/1905年京都府生まれ。28年京都高等工芸学校建築科卒業後、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で哲学などを学ぶ。60年ヨーロッパを巡り、大きな影響を受ける。83年逝去。おもな作品=「浅草善照寺本堂」(58)、「虛白庵」(70)、「親和銀行本店懐霄館」(75)。
    写真提供/白井晟一建築研究所

  • 白井原太氏の画像

    白井原太Shirai Genta

    しらい・げんた/1973年東京都生まれ。97年多摩美術大学美術学部建築学科卒業。設計事務所勤務を経て、2000年より白井晟一建築研究所。

  • 渡邊 隆氏の画像

    渡邊 隆Watanabe Takashi

    わたなべ・たかし/1953年新潟県生まれ。72~76年芝浦工業大学建築史研究室にて、木曽路の奈良井宿の町並み調査にかかわる。76年大工棟梁・田中文男が率いる真木建設に入社。91年真木建設代表。99年真木建設清算に伴い、風基建設設立。

  • 小倉英世氏の画像

    小倉英世Ogura Hideyo

    おぐら・ひでよ/1967年埼玉県生まれ。91年千葉工業大学工学部建築学科卒業。93年芝浦工業大学大学院理工学研究科建設工学科修了。国内外の集落調査を経験。設計事務所勤務を経て、96年真木建設に入社。現在、風基建設勤務。