パビリオン・トウキョウ2021 出展者インタビュー
1.実行委員長・和多利恵津子氏(ワタリウム美術館)インタビュー
2022/3/30
【2021年夏に開催されたオリンピック・パラリンピック東京大会に合わせ、数多くの文化プログラムが実施された。東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京のプログラムの中核となったのが「Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル 13」だ。応募2,436件の中から選ばれた13件の企画のひとつが、世界で活躍する日本人建築家やアーティスト9組が、国立競技場を中心とする東京の街に、複数の仮設の小建築を展開してゆく「パビリオン・トウキョウ2021」だった。
あれから半年。同プロジェクトの記録集『パビリオン・トウキョウ2021』がTOTO出版から刊行されたのを機に、実行委員長を務めた和多利恵津子(ワタリウム美術館)に、プロジェクトを振り返ってもらうと同時に、記録集への思いを聞いた】
―― 東京オリンピック・パラリンピックは、コロナ禍で海外からはほとんど来日できない状態でしたし、国内の人も移動を控えるような時期でした。五輪自体が実際には見られない中で、「パビリオン・トウキョウ2021」を見た人も、当初の想定より少なかったと思います。その意味では、今回の記録集の意味は一層大きくなるのではないでしょうか。
和多利 何といっても、記録を残すことがすごく重要です。次に誰かがこういった企画をやる時に、参考になるだろうと思いました。英語も入れてくださって、海外にも出せるものになりました。
―― やはり、コロナの影響はこのプロジェクト全体に及んでいるのでしょうか。
和多利 2020年の年が明けたころ、みんなでやるぞって思っていましたが、五輪が延期になり、拍子抜けしました。ついには五輪はなくなるんじゃないかというような話もありました。でも東京都の方は、たとえ五輪が中止になっても、この企画は実現すると言ってくださいました。五輪で予算がついたことは確かですが、別に五輪賛歌の企画ではありませんでしたから。
逆に、コロナのために普段は海外を飛び回っている建築家たちがみんな国内にいて、オープニングの時も全員が揃っていました。普段なら、ある程度は事務所のスタッフに任せたりしたんでしょうが、みなさん日本におられるから、その点は手作り感満載という感じで、ご本人の気持ちや意志が強く、直接関わって下さったことで個性がはっきり出たように思いますね。
―― フォリーのような作品を街の中に置いていくことによって街全体が楽しめる企画だったと思いますが、半年経った今、何を思いますか。
和多利 「パビリオン・トウキョウ」の会期の最後の方に、国土交通省の公園緑地・景観課の方が見に来てくださって、日常とは異なる楽しみ方、実用的な用途だけではない、自由な楽しみみたいなものを、どう都市に生み出していくかという時に、この企画は新しい実験だったというふうに評価してくださいました。
とにかく、前例をつくったということは間違いないと思います。可能性の前例みたいなもの。例えば、平田晃久さんの作品なら、お母さんや子どもたちが毎日のように見に来て、中に入って遊んでいました。これは、コミュニケーションの可能性だな、と。そういう意味で、都市における社会実験のひとつになったと思いますね。平田さんの作品がなくなった途端に、元のコンクリートの何もない広場に戻ってしまって、人びとのコミュニケーションが消えてしまいました。
一方で、実験である以上、理解していただけない人もいました。公共空間での実施のため、それは想定していたことですが。
―― 一番苦労したことは、展示場所探しだったのでしょうか。
和多利 国連大学前の広場など、すぐに趣旨を理解してもらえた場所もあって、そうしたところはそれほど大変ではありませんでした。
一番難航したのは、会田誠さんの作品「東京城」を展示した、絵画館前から伸びる銀杏並木のところですね。極端に言うと、工事に入る日にOKをもらったような形でした。あそこは関係者が多く、通常の認可に加えて風致のこと、道路許可のこと、さらに明治神宮のお墨付きも必要でした。もう工事にかからないと間に合わないという日になって、「何とかして下さい」と東京都の担当者に懇願したんです。それまでずっと何か月も、指摘されたことを反映していろいろ書類を直したりし続けていましたので。そうしたらやっとGOサインが出ました。
東京都や担当のアーツカウンシル東京は、きちんと関わって一緒に考えてくれました。ここまではいいんじゃないかとか、ここからは無理じゃないかというように、一緒に進めていきました。
ただ私たちのスタンスは、できる場所を探すより、作家なり建築家がここでやりたいという希望を最優先する。その場所に設置する効果は、作品の一部なわけですから。だから、銀杏並木のところは、すごく粘りました。
会田さんの作品は、きちっと建物としての申請をして、藤原徹平さんのチームが構造計算を手伝ってくれました。ロープや土囊の色まで、いろいろ指示を受け対応しています。普通だったら、もういいですとめげてしまいそうですが、会田さん以下、一丸となった感じが強かったですね。
藤森照信先生の「五庵」の場所も、最初は競技場の近くの公園なども考えたのですが、競技場周辺は五輪のためにさまざまな規制があり、これはプライベートな場所じゃないとダメだと考えて、お寺や企業を巡りました。
ただ、敷地が決定して制作の段階になれば、建築家の方はプロなので、完全に任せられるんです。計画表が出てきて、業者も決まって、非常に速やかな流れでした。
―― 地権者や行政との交渉を通じて分かったことはありますか。
和多利 出来ないことばかりではないということ。場所によっていろんな条件があるわけで、それをひとつずつ丁寧にクリアしたことによって、都市は開かれて行くのだと思いました。
ただ、いくら作家がやりたいと言っても、そこで何かをすることによって誰かに迷惑をかけてはいけない、と思ってました。だから台風が来ても飛ばないような構造をお願いしました。これで駄目なら、普通の家も建ちませんよというぐらい頑丈に。そこまでやって、周囲に迷惑をかけないようにするのが基本ですね。
―― このプロジェクトは、もともと、1964年の五輪の時に、子どもだった和多利さんご自身が、都市も建築も変化し、ワクワクする経験をしたのに、今回の五輪ではあまりそれがない。そうしたところからスタートしたと理解しています。結果として、たくさんある文化プログラムの中で最も成功したひとつではないでしょうか。記憶に残るという狙いは、うまく達成できたのではないでしょうか。
和多利 コロナがなければ、もう少しみんなでお祭りとしてやりたかったこともあったので、その部分ではフラストレーションもありましたが、感染が拡大する状況で他のイベントがどんどん中止や縮小になる中で、屋外開催が中心だったということで実現できた面もあって、精いっぱいやれたかなという感じはありますね。
何が成功かは分からないですが、実験ができたということで言えば、こんなことが都市にあっていいんだということを知ってもらえた意味で、すごく成功だったんじゃないかなと思いますね。作家たちが考えていたことはほぼほぼ実現できたし、それを多くの人が目撃して、記憶に残ったと思います。子どもたちにとっても、銀杏並木のところにお城があった、という記憶は確実に残ると思います。そこは成功だった。
―― 1964年と2021年で、社会や都市のあり方というのは、違っていたのでしょうか。
和多利 子ども時代のことはよく覚えていない面はありますが、64年は子どもが隠れ家のようなものをつくれそうな空き地など、誰にもコントロールされていないように見える場所がいろいろあったように思います。今は、隅々までコントロールされていますよね。すべての場所、この周辺のたとえ小さな場所でも、入ったら怒られてしまう。息苦しい感じだなっていうのはありますね。私有地でも空いたところっていうのはなかなかなくて、みんな目一杯にパンパンに利用されている感じで。
昔と比較するのは難しいですが、現代の東京という都市のオープンスペースを揺さぶって魅力を引き出すのがメインの目的でしたから。テンポラリーな設置なので本当の意味での効果っていうのは、先にならないと分からないところはあるのですが、でもちょっと揺さぶれたかなと感じています。
―― そのあたりが、やってよかったという収穫になりますか。
和多利 こういう楽しみ方があるということを、みんなが見てくれたことですね。藤森先生の茶室にしても、あの巨大な競技場を小さな窓の中へ飲み込んで、「風景いただきました」みたいな借景になった。藤本壮介さんの作品も、建築家としての原点に戻るみたいなところがありました。昔から、雲を建物や建築の原点として考えていて、初めてそれを実現できたという面があったみたいです。子どもたちが気に入って、自分の雲のように思っていました。見に行くと、「うちの雲へどうぞ」みたいな感じになっていたんですよ。
―― 施工が始まって、これはいいものになるな、と確信した瞬間がありましたか。
和多利 私はここで暮らしているので、青山通りをよく自転車で走るんです。そうすると、いつも見ていた風景がまるで違うんです。それにすごくワクワクした。特に会田さんのお城はうれしかった。工事の途中に雨が降ったりもしましたし。銀杏並木は私自身、小中学校時代にずっと通っていたので、その変化には敏感でした。周囲に友達も多く住んでいて、「また和多利は変なことやってるね」みたいな感じで言われていました。
―― 今回参加した建築家たちは、本来なら実際の五輪関連の施設を設計してもおかしくないような人たちです。このプロジェクトでようやく実現したようなところもあります。
和多利 海外の人たちに、日本の建築の力を見せたいと考えていました。ただ今回は、建築とは違ったもっと自由なものになりました。ふつう建築家は、決まった敷地に対して建築を設計するので、自分で場所を決めるということはありません。だから、どこでもいいです、何でもいいです、ということは、建築家にとっても珍しいことだったでしょう。藤本さんも、平田さんも、石上純也さんも、みんな自分で敷地を探してきてました。
パビリオンの敷地は、競技場からあまり遠くならない予定でしたが、一番遠いのは妹島和世さんの浜離宮恩賜庭園ですね。彼女は海外で活躍しているから、日本の良さという点をとても考えていました。日本の松の美しさを見せたい、という言葉がありました。今回の「水明」はシンプルに見えますが、文化財庭園の地面に釘を刺すのでとても慎重にしなければならず、なかなか精度が出せなくて大変だったようです。
―― 成功した一方で、やはりコロナの影響は大きかったと思います。もともと、今おっしゃった妹島和世さんも、藤森照信さんも、日本的なものと現代建築の関係を外国の人に見てもらおうと考えておられたし、平田さんの作品も、「Global Bowl」というタイトルでしたが、外国人に見てもらうことはほぼ難しかった。
和多利 そうですね。ただ思った以上に、海外向けに記事が発信されました。妹島さんをはじめ、みなさんが海外から注目されている建築家だということもあるでしょうし、紙媒体とインターネットの両方で10ぐらいのメディアに出たと思います。こんなことがあったということは、少しは海外にも伝わっていたと思いますね。
―― とはいえ、見た人が少なかったっていう意味では記録集の意味合いが大きくなりましたね。記録集にする時は、特にどういうところを注意しましたか。
和多利 パビリオンを見ていない人はもちろん、実際に見た人でも臨場感をもって、新鮮に感じてもらえるように制作しました。思考のプロセスが分かるよう、図面やスケッチ、関連資料など、かなり突っ込んだ内容も入れています。構造や制作過程など、目に見えない裏方の工夫も残したいと思ったので。
ビジュアルをメインに見開きで大きく見せているので、新鮮なアングルも多くあると思います。その点でも、海外の方にも楽しんでもらえると思います。写真は、3人のカメラマンに撮ってもらっています。プロセス写真は撮影のタイミングが難しくて、現場に行ったら誰もいなかった、ということもあったはずです。現場が何か所にもわたっているので、予定より早くできるものも、遅れるものもあったので。
加えて、第三者視点としてランドスケープやアート、建築の各分野の専門家にこの企画についての批評がいただけました。この本で、企画の全体を把握いただけると思います。都市の実験として、舞台は東京の中心地ですから、ほかの国でも参考になると思いますね。
監修=和多利恵津子(ワタリウム美術館)
編集=TOTO出版
発行年月=2022年3月
体裁=A4判変型(270×210mm)、並製、200頁、和英併記
ISBN=978-4-88706-396-9
ブックデザイン=林 琢真、蒲原早奈美(林琢真デザイン事務所)
定価2,970円(本体2,700円+税10%)
―― 記録集をつくることによって、プロジェクトを見直した面はありますか。
和多利 やはり、一つひとつのパビリオンを改めて振り返ることができました。会田さんのお城など、全速力で走りながらつくっていた感じで、その時は気づかなかった点が多くありました。丁寧に構造設計をしてくれていたことや、何度も屋根の角度を変えるなどの丁寧なものづくりのプロセスが、ページの中から伝わります。平田さんのパビリオンも、あれだけ複雑な木のピースを組んでできているということがやっと分かりました。今、木材もコンピューターを使った複雑なカットが可能になっていることが、改めて分かります。
これは、データとは違う、紙の本の良さだと思います。紙とインクでできているものは、手触りも含めて独特の形で記憶に残るから。それに、どのページへもランダムにアクセスが可能ですからね。デザインもスッキリとしています。
―― 記録集には、「次の東京へと進む足がかりになることを願い」と記していますね。
和多利 日常的な暮らしの中では、実用性みたいなところが中心になりますが、本当の楽しみとは実用ではないところにあって、それがアートの役目でもあるんだろうと、改めて気づきました。もう少し感性とか意外なところに楽しめるものがないと、人間の暮らしはつまらないものになる。
都市も、採算ばかり考えていると、そろばんに合うものしか存在できない。でも都市はそれだけのものではないし、人間の喜びは便利な生活だけではない。「パビリオン・トウキョウ」は、それを示す実験でした。
頭に栄養がいくようなことをすれば、まだまだ街も人も変われるという事例になったのであれば、よかったと思います。今回は、東京都の予算を中心に実現できたわけですが、いろいろな形で少しずつそういうことをやると、街も変わるのではないかと思います。
また、この経験を踏まえた上で、次へ行ってみたいという気持ちがあります。第2弾もやりたいですね。またこの東京でやりたい。私たちは、ここで育って、たぶんここで死ぬことになるんだから、東京のここが起点です。
和多利恵津子 Etsuko Watari
1956年、東京都生まれ。ワタリウム美術館館長。早稲田大学文学部卒業。1980年、ミュージアムショップ・オン・サンデーズ設立。1990年、ワタリウム美術館設立。「ロトチェンコの実験室展」、「ルドルフ・シュタイナー展」、「重森三玲 北斗七星の庭展」、「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」など、現代美術から建築まで幅広い内容の展覧会をキュレーションする。
大西若人 Wakato Onish
朝日新聞編集委員。1962年生。東京大学工学部都市工学科卒、同修士課程を中退し、1987年に朝日新聞社入社。主に建築や美術について取材・執筆。『安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言』(日経BP)、『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2012』(現代企画室)などに寄稿。