現代住宅併走 40

数寄屋造のモダン化
去風洞

設計/西川一草亭

写真/普後 均(西川一草亭のポートレイトを除く)
文/藤森照信

  • 水平の線と垂直の線の交差によりモダンな立体幾何学的秩序を生み出している。床の間の右手の土壁に釘を打ち花を生けるのが“一草釘”。

  • 去風洞

 “西川一草亭”といっても、日本の伝統文化の近代化によほど関心がなければ知らなくて当然だろう。私もこの名を、堀口捨己の「岡田邸」(1933)を見に行ったとき、建築史家の横山正から初めて教えられ、さらに前回の「八木邸」(30)でも、八木さんから設計者の藤井厚二と一草亭との深いつながりを聞いた。
 藤井厚二、堀口捨己という、伝統住宅の近代化に大きな足跡を残したふたりの建築家のことを深く考えるには、一草亭は欠かせない。名著『風流一生涯 花道去風流七世 西川一草亭』(淡交社)の著者の熊倉功夫先生の紹介を得て、八木邸に続き一草亭が自邸兼花の教場として建てた京都の〈去風洞〉を訪れた。
 一草亭は、明治11(1878)年、由緒ある京都の花道家の家に生まれ、大正期以後、生け花の近代化に尽くし、茶道にも新境地を開いている。加えて、大正、昭和初期のヨーロッパ文化を知的ベースとした夏目漱石から谷川徹三に至る文化人や芸術家に伝統のなかのモダンな魅力を伝えるという大きな役目を果たしている。もちろん、藤井も堀口も“伝統と近代”という関心から一草亭とつながるが、どこがどうつながるのか具体的に触れた論考がこれまでない。
 その欠を埋めるべく、去風洞の小ぶりな門をくぐると、最初に迎えてくれたのはバナナの兄弟芭蕉。藤井は、夫人と一緒に入門し生け花を習っているし、堀口はしばしば訪れたばかりか、長逗留もしているというから、ふたりとも芭蕉で迎えられていただろう。利休も、芭蕉の葉を床に掛けたと伝えられ、戦後の前衛花道家の中川幸夫も利休へのオマージュとして試みているし、私も真似して「ニラ・ハウス」(1997)の茶室の「薪軒」で挑んでみたが、即破綻。
 式台も踏み込みもなく、茶室のような踏み石から一気に障子を開けて家の中に入り、座敷に通されて、十世家元の西川一橙氏の挨拶を受ける。この先、取材と撮影のあいだ、ずっと一橙・弥子ご夫妻は正座して控えておられ、ぶしつけな質問にも丁寧に答えてくださった。
 座敷の床の間の前に座り、最初はどこをどう見たものか和室の見方の不明に戸惑ったが、しばらくして、やっと藤井作との共通性に気づいた。
 和風の常に従い、まず畳の面が広がり、正面に床の間が立ち、左右には襖、上には天井面が視界を占めるが、全体を制御し部屋をひとつの空間としてまとめ上げるのは、各面をタテヨコに走る線と、そこから生まれる三尺ピッチの立体格子。
 藤井作の空間の背後には立体格子という近代的な幾何学が控えていること、それがモダンな感覚を可能にしていることを何度も指摘してきたが、ここにもそれがある。
 というと、藤井も一草亭もベースにした数寄屋造と同じじゃないかと思われる読者がいるだろうが、違う。藤井、一草亭、そしてそれに続く堀口捨己、吉田五十八より以前の数寄屋では、床の間や欄干など施主と大工棟梁が自由に手を入れていい箇所には癖の強い造形が取り込まれるのが常だった。そうした造形的遊びが許されるからこそ、数寄屋は人々に好まれ、遊郭、旅館、料理屋、別邸専用のスタイルとなっていた。
 そうした造形的遊びを一草亭は意識的に抑えることに努め、その結果、生み出されたのが右手の襖の上に見られる一草亭好みのその名も“一文字透かしの欄間”だった。花鳥や山水を彫ることにより施主と棟梁の好みと腕の見せ所であった欄間を穴ひとつに化してしまった。

  • 座敷の欄間が名高い“一文字透かし”。彫刻化を拒んだモダンな造形として知られる。

  • 玄関の障子を開けるとすぐ畳の間。この異例な入り方はもちろん茶室に由来する。富岡鉄斎より寄贈の「去風洞」の書が架かる。

  • 小ぶりな門を入ると、芭蕉が迎え、その左手が玄関。縁も式台もなく、障子を開けて直接上がる。

  • 広い縁の空間の2階には半円の窓。庭の手前は茶室へ向かう露地の手水(ちょうず)鉢。

  • 中潜(なかくぐり)の向こうに露地と手水鉢が見える。

 造形的遊びを削りながら、しかし見る人の目に豊かな印象を与えるべく、選りすぐった皮付き赤松を床柱として、北山杉を床框として据え、端部をチュッと舐めるように手斧でハツって木目を露わにしている。
 床の間本体も、これほど大きい室床(むろどこ)(隅柱を塗り込む技法で、利休の待庵に始まる)は珍しいし、右手の土壁に直接釘を打って掛ける花は一草亭の発明になり、“一草釘”と呼ばれる。大きな室床といい、一草釘といい、花道家としては“草花を野に返す”ことを旨としたにちがいない。
 数寄屋のモダン化を幾何学(立体格子)化により果たした座敷(客間)以上に興味深く眺めたのは、花の教場の外側の庭と庭に面した広縁と、広縁の一画の仏間と、その2階の開口部、要するに、建築の外側の造りだった。
 広縁から述べると、縁をひとつのちゃんとした空間として扱っているのは、その一画に仏間が口を開けていることからうかがわれよう。加えて、軒の出が茶室式の化粧軒になり、縁に面する壁が芯柱ではなく、大壁なのも異例。藤井の「聴竹居」(28)の入口が土の大壁となっているのがかねてより来歴も意味も未詳であったが、同じことがここでも行われている。茶室における室床の思想を外壁に持ち出した、と考えてはどうだろう。
 庭に立ち2階を見上げて、一草亭の隠し物を見つけた思いがした。実弟の画家・津田青楓が描いた『去風洞十勝図』の最初に登場するアーチ状の窓である。円窓はあっても半円窓は数寄屋にはなく、大正期のドイツ表現派的な美学が強くにじむ。
 庭についてはこのたび初めて目にし、強い印象を受けた。かつてもっと広かったことが津田の画帖からわかるが、現在、残っている一部を見て、石の姿も配置も、まわりの植栽も、“庭を野に返そう”としている。こんな庭は一草亭以前に例はない。
 唐突にいうが、一草亭は生け花と庭と建築の3つからなる数寄屋造という伝統的様式を、利休の目を借りて洗い直し、モダン化しようとしたのではないか。一草亭と藤井の共通性はそこにあった。
 去風洞完成大正15(1926)年、聴竹居竣工昭和3(28)年。藤井は、一草亭の建築をにらみながら設計を進めたのだろう。
 なお、一草亭の影響は、藤井より堀口のほうが決定的に受けている。とりわけ、室内から庭への展開のあたりは。

  • 庭と室内をつなぐ縁の扱い、とりわけ縁の手すりは堀口捨己に強い影響を与えている。

  • 縁の右手には流祖去風像。隅の壁は塗りまわしになっている。この場に生まれた空間のモダンさに注目。

  • 花の教場。左手の板の上に花を置き、そこから花を取ってきて生ける。

去風洞
建築概要
所在地  京都府京都市
主要用途  専用住宅
設計  西川一草亭
階数  2階
構造  木造
竣工  1926年
Profile
  • 西川一草亭

    Nishikawa Issotei

    にしかわいっそうてい/明治11(1878)年、京都の由緒ある花道の家に生まれ、去風流を継ぐ。伝統の生け花の形式性に反発し、自然の花の美しさを生かすことを目指し、明治末年以後、新しい花の領分を開き、一家を成した。夏目漱石、浅井忠、建築家としては藤井厚二、そして堀口捨己と親しく交流している。住宅建築と庭を自分の好みを入れてつくることも試み、自邸の「去風洞」や「島野邸」(1934)をデザインし、後者の応接間は堀口が手がけている。昭和13(1938)年、没。

    写真出典/『風流一生涯花道去風流七世西川一草亭』(淡交社)

  • 藤森照信

    Fujimori Terunobu

    建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。

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