現代住宅併走

1階は、黒タイル貼りの部分の外はピロティとなっていた。鼓型の柱と軒のパラペットに注目。写真/普後 均

2020年 春号労働者住宅への想い

作品/「富山アパート」
設計/浦辺鎮太郎

主室は居間、台所、食堂からなり、台所と食堂は造り付けのテーブルで分けられている。写真/普後 均
寝室より障子越しに廊下およびガラス窓を見る。写真/普後 均

 今回は珍しい建物を取り上げたい。表現や構造ではなく、ビルディングタイプとして珍しい。
 大きな企業の労働者の住まいというか社員寮というか、“クラレ”(倉敷レイヨン)が富山に工場を新設したことから建てた。
 存在を知ったのは2019年10月に倉敷で開かれた“浦辺鎮太郎建築展”のときで、戦前、浦辺が倉敷絹織株式会社(現クラレ)所属の建築設計課の時代、上司だった薬師寺主計が1928年から33年にかけて倉敷に手がけた木造の「本社工場食堂棟」「工員休憩室」「女子寄宿舎」の質の高さに目を見張り、「倉敷絹織労働者住宅群」と名づけてもかまわないと思った。その後すぐ課長に就いた浦辺もいくつか社宅を手がけている。当時、世界の先進的企業のあいだでは社会主義の影響下、工場付設の労働者住宅の充実を図る動きが高まり、それに呼応している。もちろん、企業オーナーの大原總一郎(1909〜68)がよく知られているように理想主義のもち主だったことによるが、建築史家の目には“ウラチンは学生時代の想いを秘めていたんだ”と映った。
 浦辺は、京都帝国大学の建築学生時代、西山夘三などとともにマルクス主義に傾き、西山は逃れたものの特高(特別高等警察)に捕まっている。西山と違い、その後二度と社会運動的動きはしていないし、文化的関心は骨董と民芸に集中しているが、その奥で戦後も若き日の気持ちを静かに保っていた。今こう書きながら考えると、民芸への注力も、マルクス主義とキリスト教への想いを生涯もちつづけた村野藤吾への共感も、若き日の気持ちとつながっていたのかもしれない。

左手がもとは板敷きの、右手が畳敷きの子ども部屋。写真/普後 均
窓は、片引きガラスの内側に、紙障子3枚引きの引き込み戸。写真/普後 均

 戦前、戦後になした労働者住宅の有無について浦辺設計の西村清是さんにうかがうと、富山に1棟だけ鉄筋コンクリート造の社宅が県に移譲されて残っていると教えられ、今回の取材となった。
 今は住宅ではなく都市公園の管理施設として旧ピロティ部分を改造して使っていると聞いたので、保存状態が不安だったが、敷地に入り、姿を目にして心配は消えた。確かにピロティに壁は立てられているけれど、浦辺の社員寮に対する想いはそこここから放射されている。
 まず打放し。こうした鉄筋コンクリート造の近代的集合住宅は、1955年の日本住宅公団創設を機に日本の社会に根差しはじめて今に至るが、〈富山アパート〉は61年に完成し、その原型は前年に決まり、浦辺は一群の社宅を「RC-60型」と名づけている。
 公団は鉄筋コンクリートにモルタルを塗って仕上げたのに対し、RC-60型は打放しを採用する。このことは意外に重要で、3年前の前川國男の「晴海高層アパート」(58)とともに集合住宅に打放しを使った最初期の例となる。
 打放しは施工上も視覚的にも決して住宅としては受け入れられやすくなかった当時、浦辺はル・コルビュジエの「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」(52)を強く意識し、社員たちに世界の最先端の集合住宅を提供しようと考えたにちがいない。
 ユニテの影響は具体的には打放しとピロティに直接的だが、斜め横から眺めたときのプロポーションにもル・コルビュジエの感化を見た。

屋上。物干し場として使われ、腰を下ろす台が造り付けられていた。写真/普後 均
風呂は、特注のガス釜により沸かした。写真/普後 均
台所より洗面コーナーを見る。<br>写真/普後 均
和式水洗トイレ。写真/普後 均

一方、倉敷で身につけた造りも加えている。ピロティとピロティのあいだの当初から壁に貼られた黒いタイルと、浦辺が“壁庇”と名づけた珍しい軒の造りで、ともに大阪の「日本工芸館」(60)で試み、翌年、富山でも、となるが、しかし、ことタイルについて正確にいうと、日本工芸館では1枚を1列に貼っただけなのに〈富山アパート〉では全面に貼って“ナマコ壁”と化している。倉敷の伝統的町並みを象徴するナマコ壁を浦辺が初めて使ったのは「倉敷考古館増築」(57)のとき、伝統に合うよう漆喰壁の一部として“隠れて”使っているのに対し、4年後のここでは前面に押し出している。
 打放しにナマコ壁。来歴も視覚効果も大きく離れた仕上げをあえて交ぜる、という浦辺の編み出した珍しい設計手法の起源はどこにあるかとかねて関心をもってきたが、あるいは〈富山アパート〉を含めたRC-60型アパートかもしれない。
 こう思って見ると、2階以上の打放しのあいだに黄味がかったレンガをやや唐突に加えたのも理解できよう。
 RC-60型のすべてがそうだった。〈富山アパート〉の鼓型の壁柱による打放しも、このシリーズの代表作「倉敷レイヨン高槻アパート」(64)のピロティ状側壁にあいた奇妙な形の穴も、思いつきではなく意識的な試みだった。一連のRC-60型アパートでは建築表現として成功したとはいいがたいが、この試行の先に出世作にして名作の「倉敷国際ホテル」(63)が誕生する。
 中を見よう。もちろん打放しを基本とし、そこに木材を組み込んでテーブルをつくり、杉の柱を立て、障子をはめて和室(寝室)とする。窓枠は特注のスチールサッシを使い、その内側にカーテン代わりに障子を立てる。
 注目すべきは居間、台所という生活の中心部分の平面で、戦後のRC造集合住宅の平面を決定づけたことで知られる建設省(現・国土交通省)の「51C型」の改良版というか浦辺版。浦辺によるRC-60型という命名も建設省の51C型を強く意識している。51C型が住宅公団で採用されるようになったのは5年前の1956年からだから、浦辺の反応は早い。
 51C型は、戦前、西山夘三が卒業後に入った住宅営団時代に主張した「食寝分離論」を、戦後、吉武泰水、鈴木成文が定型化して実現しているが、浦辺の目には“先刻承知”と映っていたかもしれない。浦辺と西山の卒業後の付き合いがどうだったかは知らないが、同級生による戦前の「食寝分離論」とその戦後の実現形である51C型を受け入れるのは準備万端整っていたにちがいない。
 公団の実例も見ているが、建築空間としては〈富山アパート〉のほうがずっと充実している。集合住宅なのに勝手口が設けられていること、壁から延びる固定テーブルにより台所と居間が分けられていること、細かい工夫としては鉄筋コンクリート造の構造体によって必然的に生まれる梁による隙間を床下収納に利用したこと。その結果、下の階の台所の上部に奇妙な天井カーブが発生しているが、コルビュジエ的造形として見れば理解できよう。
 浦辺鎮太郎といえば、これまで、戦後モダニズムの主流からはややズレを見せる倉敷国際ホテルの、あるいは村野藤吾的装飾性過剰な「倉敷市庁舎」(80)の建築家として周知されてきたが、このたびの取材によりそうした現象の奥にある想いを知り、充実した時間となった。

共用部分の“見せ場”は階段室。<br>写真/普後 均
富山アパート コルビュジエの「ユニテ」をしのばせるプロポーション。写真/普後 均
  • 浦辺鎮太郎の画像

    浦辺鎮太郎Urabe Shizutaro

    1909年倉敷で生まれ、京都帝国大学在学中に西山夘三らと左翼活動を行い停学処分にされたが、34年に卒業後は倉敷絹織(のちに倉敷レイヨン、現クラレ)に入り、長く大阪営繕部長として活動。戦後、62年、やっと独立。独立後も倉敷の仕事は続け、63年「倉敷国際ホテル」ほかをつくる。世代的にはモダニズム建築世代に属するが、生涯、モダニズムとは距離を取りつづけたことで知られる。戦時中も“右傾化”しなかった点は西山夘三と対比的であり、時流に流されなかったのはなぜなのか、日本近代建築史に謎を残す。91年逝去。

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。