現代住宅併走

居間の天井。和とも洋ともつかないヘンなデザインだが、設計者は直線による分割をねらっている。写真/普後 均

2020年 新春号幾何学的数寄屋造

作品/「太田喜二郎邸」
設計/藤井厚二

入口のアプローチ。写真/普後 均
玄関を内側から見る。ドアの頑丈さに注目。写真/普後 均
四角いランプシェードは珍しい。写真/普後 均

 日本近代住宅史上の名作は数あれど、不幸なことに多くは火事で焼けたり建て替えられたりして今はない。しかしたとえば藤井厚二の場合、ピークを画した「聴竹居」(1928/『TOTO通信』2000年冬号)が保存されているから当然取り上げたし、同時期の「八木邸」(1930/『TOTO通信』2018年新春号)も紹介してきた。
  藤井厚二の〈太田喜二郎邸〉(1924)を探訪しようと思い立ったのは、八木邸と違いピークに至る4年前の作だからだ。これを見ると、ピークに至る過程がわかるにちがいない。
 設計者と施主の関係から述べよう。京都大学建築学科教授の武田五一が、1920年、モダンな点描画で鳴らす太田喜二郎を、学生にスケッチなどを教える非常勤講師に招き、同年、藤井を常勤の講師として、というより自分の後任として呼び、ふたりは知り合う。その頃、太田は、点描画を含むヨーロッパの印象派の画法では日本の風景を包む湿りを帯びた光と暗がりが描き切れないことに気づき、試行を重ねていた。光も暗がりも、日本のように湿度が高いと乾燥したヨーロッパのようにはシャープにならない。
 大きくいえば、ヨーロッパの近代画法と日本の風景との溝を埋めるべく実績を重ねてきた画家と、ヨーロッパ由来のモダンな建築と日本の伝統的木造建築のあいだに橋を架けるべく試行錯誤を繰り返す建築家のふたりが意気投合する。
 幸い太田側の記録により設計過程が次のように判明する。
 1923年4月2日、太田が設計を依頼。6月4日、太田、藤井邸を訪れ、相談。8月20日、太田、藤井、大工で相談。9月7日、藤井、現場の縄張をチェック。1924年1月、太田、新築邸へ転居。
 設計は5カ月、施工は3カ月で完成とわかる。施工期間が建築家設計にしてはあまりに早いが、当時の木造住宅は設計さえ決まれば、たとえ藤井といえど伝統を踏まえた材料と工法による限り3カ月もあれば十分だったことがわかる。
 訪れてみよう。道路の側から眺めるとありふれた京都の造りに見えるが、画室である無窓の棟の三ツ割の壁面と塀とで生まれるプロポーションはその気で見るといちじるしくモダンだし、左手和室の勾欄の、市松紋様とウィーンセセッションを一体化したようなデザインはいかにも藤井好み。

居間を西から見る。畳敷きは裁縫と仏壇のため。写真/普後 均
ウィーンセセッション的木造デザイン。写真/普後 均
東側外観。高窓はアトリエ(新画室)の採光のため。写真/普後 均

 狭い路地を通り玄関前に立つと、ドアの造りの頑丈さに気づく。伝統的和風住宅の玄関引き戸のあまりの防犯・防風上の無防備さへの反省を込めたと思われ、この考え方が聴竹居の土塗り大壁ドア玄関へと持ち込まれたのだろう。
 狭い路地と閉鎖的空間をくぐり抜け、2枚目のドアを押して入ると、と書いてから気づいたが、現在、日本のドアは外開きが普通だが欧米は内開きが原則で、藤井がこの違いをどうしたかと見ると、欧米流を採用している。
 ドアを押して中に踏み込むと一気に視界は開け、ひとつ空間の中に居間と食堂と裁縫場と仏壇が納まっているし、隣の台所から食堂へのサービスは引き戸ではなくハッチを通す。
 台所と食堂が一体化するのは戦後の住宅公団以後になり、それ以前のモダンな住宅はハッチを使って台所と食堂をつないでいたが、あるいは藤井に始まる工夫なのか、それとも欧米住宅が元か。
 一見して奇妙な空間といわなければならない。ひとつ空間の中に床(ゆか)と畳のふたつのレベル差があり、畳の奥には仏壇が納まる。畳部分が図面では裁縫場と書かれていることから、ここで母が和裁をやり、仏に手を合わせていたとわかる。畳の和と床の洋の溝を段差を付けて解消するやり方は、後に聴竹居で使われるし、以後いろんなモダンな住宅で採用されるようになるが、この起源も藤井かもしれない。

アトリエ。天井に採光用のガラス。写真/普後 均
応接間。奥にアトリエ。写真/普後 均

 奇妙な空間でありながら、というか、だからこそ目立つひとつの質がここにはある。床面と天井面、そして壁面に注目すると、誰でもわかるように強く黒い線が各面の上をタテヨコに走る。空間という立体が垂直と水平の線により幾何学的に分割されている。とりわけ天井の格子状の線は強い。
 このあまりに強い立体格子状分割は、空間を数学的秩序に従わせたいという設計者の意図を露わにする。完成度を犠牲にしてまで露わにする。
 このことに気づくと、藤井と吉田五十八の本質的差が見えてくる。やや唐突に吉田を引き合いに出したが、日本の伝統的住宅の近代化という難問を考えるとき、藤井と吉田のふたりの名がまず挙がる。伝統の数寄屋造をベースにした藤井の聴竹居に一歩遅れて、東京の吉田が数寄屋造の近代化に取り組み、1930年頃には〝近代数寄屋〞を確立しているからだ。もちろん吉田は和と洋の段差のこともハッチのこともよく知り、実践しているし、空間の流動性や装飾性排除も藤井と同じ。藤井は西の京都大学の、吉田は東の東京藝術大学の教授として、伝統的木造住宅の近代化という方向では一致しながら、漂い出る雰囲気がどこか違うのはなぜなのか。

アトリエの高窓。写真/普後 均
次の間(増築部分)。右手襖の向こうがアトリエ。写真/普後 均
大通りから見た全景。白壁の分割が伝統とは少し違っている。写真/普後 均

 その狭いが深い印象の差が何に由来するかわからないまま長いことふたりを一緒にして話してきたが、〈太田喜二郎邸〉の居間を見てやっとわかった。ふたりの差は空間の背後に幾何学が隠れているかどうかの差にほかならない。藤井は数寄屋造を幾何学という数学で洗い、数寄屋造にまとわりつく手技というか味わいというか、そういう長い歴史のなかで染み込んだ垢のようなものを流し去った。だから、その後の木造モダニズムの源となることができた、と今は考えている。

  • 藤井厚二氏の画像

    藤井厚二Fujii Koji

    1888(明治21)年、広島県は福山の豪商の子として生まれ、東京大学卒業後、まだ社員数人の中小企業であった竹中工務店に初の建築家として入り、数年して京都大学に移る。伝統の数寄屋造とモダンデザインのあいだの通底性に気づき、1928(昭和3)年、代表作の「聴竹居」をつくる。ここから日本の“木造モダニズム”がスタートする。38(昭和13)年、49歳の働き盛りに没した。

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。