現代住宅併走

“接客”手前から庭を見る。奥から庭への空間の連続と分節が巧みに演出されている。 © 2020 The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum / ARS, New York / JASPAR, Tokyo G2284

2020年 秋号閉じて開く

作品/「イサム家」
設計/イサム・ノグチ+山本忠司

石敷きのホールの吹抜けの上には大きな球形の“あかり”が下がる。 写真/普後 均
手前の低座から奥の接客を見る。 © 2020 The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum / ARS, New York / JASPAR, Tokyo G2284

 20世紀後半の世界の彫刻界を代表するイサム・ノグチ(1904〜88)は、日本人を父にアメリカ人を母としてニューヨークに生まれ、茅ヶ崎で育ったことから、アメリカと日本に住まいとアトリエをもっていた。今回登場する〈イサム家〉とは、ノグチが四国は香川の御影石の特産地牟礼に設けたアトリエに付属する住まいである。
 ノグチは、建築と建築家への強い関心をもち、谷口吉郎、丹下健三らと協働しながら、しかしなぜか自分の家を設計しようとはしなかった。家とその中にすっぽり納まる家族というものに過剰に敏感だったというか、余人にはうかがい知れぬ想いを秘めていたにちがいない。
〈イサム家〉は、香川県丸亀の江戸時代につくられた町屋(旧入江邸)を移築し、大きく改造を加え、イサムの気持ちを忖度するなら“地上における仮の住まい”としてつくられている。
 まず外観から。玄関のあるかつて通りに面していた側から見ると、なんの変哲もない瀬戸内地方の昔の商家の姿を見せる。白壁の細部には左官の手になる波状の黒漆喰の装飾も残り、外観には意識して手を入れなかったとわかる。反対の庭側からも同じ。
 ノグチの依頼を受けて建築家の山本忠司がこの町屋を選んだとき、ノグチは“こんなお化け屋敷”と気に入らなかったが、古家が現在地に移築されはじめ、骨組が現れると、“目が輝き出した”そうだ。
 そうして完成した〈イサム家〉をかつての通り側から順にたどってみよう。読者も、図面の上でたどってほしい。
 まず“玄関”に入ると三和土の土間の空間が迎えてくれる。さらに奥に進むと土間の“ホール”となり、同じ土間でもこっちは新たに地元瀬戸内産の御影石を敷き詰めている。ホールから左手に向かえば“台所”。玄関、ホール、台所が土間形式をとるのは、かつても土間だったからだ。日本の民家(農家、町屋)は縄文系の土間と弥生系の床(板敷き、畳敷き)の組み合わせを基本とするが、ノグチは二系統の共存状態に敏感だった。ちなみに、弥生系の頂点ともいうべき古墳時代の造形の美を最初に発見した表現者は、彼にほかならない。
  玄関から右手に折れると“接客”で、移築前は板敷きの居間として使われ、中央に囲炉裏が切られていたと思われるが、今は板敷きより一段下げて由良石を敷き、中央に黒御影石の自作を据えて低座とし、周囲は昔ながらの床位置を腰掛にする。ここを昔と同じように居間と考えていたのは、石の下にパネルヒーティングを設けて快適性を向上させたことからもうかがわれる。
 低座の通り側にはかつては土間の台所に加えてもうひとつ炊事の場が画されていたと推測するが、今は、低座と一体化して接客空間をなす。かつては同じ造りの部屋だったと思われるが、今は床のレベルをふたつに分け、通り側は一段沈めて薄ベリを敷き、庭側は昔ながらのレベルの畳敷き。
 2室を1室化した接客に接してふたつの“和室”(座敷)が広がり、ここには手を付けていない。

正面は昔の町屋の姿を残す。 写真/普後 均
 “玄関”から外を見る。 写真/普後 均

 ノグチが手を入れた空間の見せ場は、もちろんこれまで多くの写真で紹介されたように接客の通り側に座して(腰かけて)庭側を眺めたシーンで、床が段差を付けて庭へと延び、それも障子によって切ったりつないだりして庭へと延び、右手の腰掛には巨大なラッキョウ形の“あかり”が据えられ、障子を立てると灯る。障子を開けると芝と竹の庭が見える。
 玄関から和室まで、床の高さは、4段に変えるばかりか、その仕上げも高さに応じて、三和土、瀬戸内産御影石、由良石、薄ベリ、畳と変わる。
 建築空間を立体として見ると、ノグチは床にもっぱら注力し、レベルと仕上げをさまざまに変化させたことがわかる。そして、そうした変化する空間の床面に石と彫刻と紙のあかりを据えている。そして、柱には手を付けていない。
 この家についてノグチはまず、土壁にすっぽり包まれた閉じた建築と考えていた。次に室内については、一番大事なのは壁でも天井でもなく水平の床面が生む空間の水平方向への動きと考えていた。だから、床面のレベルと材料をさまざまに変えた。
 ここまで理解した後、初めて2階に上がり、軽いショックを覚えた。2階は3つの“板の間”とふたつの“和室”からなる昔ながらの造りにちがいないが、2カ所の床に穴があいて吹抜けとなり、その造りがすばらしい。ホールの上の吹抜けは半割りの丸太で囲われ、巨大な球形のあかりが灯り、通り側接客の上の吹抜けは、2階の板の間の自閉的空間に動きと開放感を与える。半割り丸太と巨大なあかりの吹抜けを中心として生まれている2階の板の間の空間は、1階の低座のラッキョウ形のあかりのある空間に匹敵する見所といって構わない。
 1階を見たときは水平方向への空間の動きのすばらしさばかりに気をとられていたが、2階に上がって、ノグチが垂直方向の動きを加えていたことを初めて知った。
 水平方向と垂直方向の双方へ抜けるように動く空間がここにはある。もちろんこうした上下左右に抜けていく空間は、日本の伝統的木造建築に固有な軸組構造(枠組構造)のたまものにちがいない。

2階の“板の間”。格子越しに大きな“あかり”が灯る。この球はノグチの魂のようにも思えた。 写真/普後 均
古い2階の床をはがし、吹抜けと化している。 写真/普後 均
2階の板の間。右手の室内格子越しに“あかり”の球。 写真/普後 均

 ここで、桂離宮や戦後モダニズムとの比較をしておきたい。桂離宮も日本の軸組構造を生かして水平方向に内から外へと抜ける空間を生み出すことに成功しているが、一方、ノグチは、垂直方向への抜けを加えたことと、桂のように全面的に外に向かって開かず、一部だけ開いて全体は土壁の中に閉じ込めている。
 日本の伝統を意識した戦後モダニズムの建築家たちは丹下に代表されるように、軸組構造を木か鉄筋コンクリートでつくったうえで、内から外へは全面的に開くのを定石としたのに、なぜノグチは、水平垂直の両方向に抜ける空間を外には抜かず、土の壁の内に閉じ込めたのか。
 再び忖度することになるが、自分の内に閉じこもりたかったからではないか。閉じこもったうえで、大地と外の自然を穴からのぞくように眺めていたかった。

庭側からの外観。 写真/普後 均
  • イサム・ノグチ氏の画像

    イサム・ノグチIsamu Noguchi

    日本人の詩人、野口米次郎(1875~1947)とアメリカ人の作家レオニー・ギルモア(1873~1933)のあいだに1904年に生まれ、幼児から青年期にかけて母とふたりで茅ヶ崎で暮らし、後、アメリカに渡って彫刻家となり、石を使った抽象彫刻により、戦後の世界を代表する彫刻家となる。日米のあいだに引き裂かれたまま自分の拠点を求めた結果、精神的に日米を超えてしまい、世界の大地と自然をすみかとするに至った。谷口吉郎、丹下健三、磯崎新、谷口吉生といった戦後を代表するモダニズム建築家と友誼を交わした。88年逝去。
    写真/野口ミチオ

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。