特集

2020年 秋号 変容する住宅たち‑ CaseStudy#3‑建築設計事務所になった
コンクリートブロックの家
作品/「本野精吾邸(現・木村松本建築設計事務所)」
設計/本野精吾
関東大震災の直後、罹災が少なかったといわれる中村鎮式コンクリートブロック造。そこから学んだ本野精吾邸。その住宅を、夫婦の建築家である木村吉成さんと松本尚子さんが建築設計事務所として活用している。
取材・文/本橋 仁
写真/桑田瑞穂

生まれ変わり事務所利用の名作住宅
本野精吾邸を借りることになった経緯について教えていただけますか。
木村この家を借りるまでに、いくつかの縁がありました。もともと、本野精吾邸にずっと前から興味をもっていたんです。きっかけは『TOTO通信』(2001年春号)の藤森照信先生の連載「原・現代住宅再見」の記事でした。それを見て素直に、すごい建築だなと感じました。あれは、大学を卒業したばかりの頃だったと思います。
松本私は、じつは実家が近所なんです。
小さい頃から、この家の存在は知っており、「謎めいた家だなぁ」と気になってはいました。木村の話した藤森先生の文章でやはり私もこの家を見て、「この家知ってる!」と驚いたのを覚えています。
木村しばらくして、このあたりをふたりで散歩して前を通りかかりました。そのとき、本野精吾のお孫さんであり、持ち主だった本野陽さんに声をかけられました。ちょうどこの家を公開して自主的な映画祭をやっていた日で、とてもラッキーでした。「建築をやっています」と話したら、2階まで見せてくださり、映画も観て帰りました。それからつながりができて、私たちの設計した住宅のオープンハウスに本野さんが遊びに来てくださったりしました。
先に本野さんと知り合いだったわけですね。そこからどのような展開があったのでしょうか。
木村建築家が1枚の写真だけでトークをするというイベントがあるのですが、私の番がまわってきたときに本野邸の昔の写真で話をしたのです。そのときに、この家の保存活用に尽力していた一般社団法人住宅遺産トラスト関西(以下、トラスト)のメンバーでもある京都工芸繊維大学の笠原一人先生から写真をお借りしました。ちょうどその頃、トラスト内でもこの家を誰かに貸す話がもちあがっていたようなのです。できれば貸す相手は、建築家がよいと考えていたそうです。理由は建築に対する理解があることと、貸した後もこの建築を使ってトラストが講演会や展覧会などをしたいという希望もあり、建築家ならそうした言い分も聞いてくれるんじゃないか(笑)、という判断もあったようです。トラストのメンバーの方から「借りませんか?」と突然連絡をもらいましたので、「はい!」と即答しました。
もともと事務所は市内の二条城近くにあったそうですね。この本野邸のある京都の郊外に移転することには抵抗はなかったのですか。
松本たまたまなのですが、相談を受けたとき、じつはこちらも実家の近くに事務所の移転を考えていました。というのも、子育てのために実家で暮らすようになっていたので、子どもが小学校にあがるタイミングで、家、事務所、それと学校を1カ所に集めたいと思っていました。子どもが学校帰りに事務所に立ち寄って、所員に混じって宿題をする。お昼はみんなでご飯をつくって食べる。そんな生活がしたかったんです。それが、まさか本野邸で実現するとは思いもよりませんでしたが。
木村一軒家を事務所にするなんて、金銭的にも負担になるのではと思われるかもしれません。でも、京都はとても家賃が安いんです。先日も東京から建築家が見学に来てくれましたが、家賃を聞いて絶句していました。具体的には伏せますが、庭付き一戸建てとしては格安です。なお修繕については、トラストが時々、この家でイベントを催すので、そのときに集めたお金を貯めているんです。




開かれた1階と閉じた2階、異なる使い方
本野邸は、最初期のコンクリートブロック造でつくられたことでも知られています。この建築の何に魅力を感じますか。
木村最初にお話しした、本野邸の写真を借りたトークでは、本野が暮らしていた当時の写真を見せたのですが、私は住まい方にとくに注目しました。写真を見ると、2階にはカーテンがかかっていて、1階にはカーテンが写ってないのです。それを見たときに、おそらく1階はパブリックに開いていて、2階とは切り離されていたんじゃないかと思いました。よく見ると1階のテラスには、折りたたみの椅子なんかも置いてあってダイニングが外にまで続く印象です。建築の構法が注目されがちですが、生活スタイルの新しさも、本野精吾は意識していたんじゃないかと思います。
以前、本野家とつながりのある方が遊びに来られました。小さい頃に上で寝ていて、なんだか下がにぎやかでのぞきに下りたら、大人たちがダンスパーティをしていたそうです。見つかって、子どもは2階で寝ていなさいとしかられたそうですよ(笑)。
見立てどおりだったわけですね。木村松本建築設計事務所では職住一体型の住宅を多く手がけられていますが、そうした仕事ともつながりますか。
木村最初に取り組んだ職住一体の住宅の仕事では、都市のなかの小さい敷地だったので、働く場所と生活の場所とを、天井の高さの差や近い遠いなどの距離を操作するちょっとした工夫で解けるという発見がありました。本野邸のように、設計によって生活様式の奥底にまで入っていくこともできることは共通していると感じています。
松本ちょうどその頃に、構造体への意識をもつようになりました。私たちの建築では、しっかりとした形をもつ構造体をつくることを意識しています。だからこそ、その中にふたつの性格の違う用途を入れても、全体の輪郭は変わりません。建築の形と、中の使い方とがある意味では切り離されているんです。
なるほど構造の形をしっかりつくることと、職住一体の建築を設計することはリンクしているわけですね。本野邸でも、1階と2階との使い分けをはっきりと分けていますね。
松本もし事務所で、両方の階にスタッフが分かれてしまうと、コミュニケーションがとりづらいなと感じていました。だから事務スペースは、基本2階です。1階は人が集まるときに使います。
1階は大きなワンルームなので、人が集まれば他人同士の会話が何気なく耳に入ってきたり、姿が見えたりして、そういうことが大事なんじゃないかと思っています。さらに、キッチンがあることも救いでした。キッチンがあるだけで、子どものお友だちとか、あるいはお客さんにちょっとした料理を出したりできるんですよね。人が集まることと、そこでできることの幅が広がるような気がします。
それはもともと住宅であったからこそのメリットですね。住んでしまおうとは考えなかったのですか。
松本それは、なかったですね。古い住宅なので、子どもがシミがあるのが怖いって(笑)。確かに普通のマンションだったら、シミってきれいに消されてしまうでしょう。誰が使ったかなんて履歴は消去されてしまいます。でも、消せない歴史は本当はあるはずです。
この家を借りながらも、心のどこかでは、自分たちのものではないという感覚があります。この感覚は子どもが生まれたときに近いと感じます。子どもも私たちのものではなく、親は子どもの人生の一部分にかかわっているだけです。こうした名作住宅を借りるのに、自分たちが背負い込むのではなく、もっと長い歴史の一部のなかに住まわせてもらっていると考えるほうが気楽で、どこか健康的な気がしているんです。
変容のポイント
開放されつづける住宅遺産


木村松本建築設計事務所が借りた後も、歴史的な住宅として見学会が催されつづけている。
まとめの文事務所を「離れ」として問い直す
文/本橋 仁
多くの企業が経験したように、木村松本建築設計事務所でも、新型コロナウイルスの影響を受けスタッフは自宅勤務を余儀なくされた。ただ、仕事の進め方の工夫次第では、働き方に幅が出ると感じて、緊急事態宣言が解除された今も、一部で自宅勤務の日を残しているという。またそれは同時に、事務所にわざわざ人が集うことの意味を問い直すことだったという。インタビューのなかで、松本さんが、この事務所がみんなの「離れ」のようになったらよいと語った。この言葉のなかに、名作住宅の可能性を開くヒントが隠されているように感じた。
本野精吾邸を事務所としてみたとき、普通のオフィスビルには望めないものがある。それは広いキッチンやテラス、そしてリビング。いわば、家族団らんのために用意された人が集まる空間だ。本野邸ではこうした部屋が1階に集められている。ただそれを、木村松本建築設計事務所では仕事場として使わない選択をした。それは結果として家が元来もつ、家である性格を守ることにもつながっている。人が集まることに比重を置いて事務所の意味を問い直したとき、こうした要素こそが大事だったわけだ。
設計事務所であれば図面を引くなど、黙々と仕事をする必要もあるだろうが、テレワークが進んだ今、そうした作業については、あえて場所にとらわれる必要もなくなった。仕事をする場としてのオフィスから、人が集まり交流する場としてのオフィスへの役割の大転換が迫られている。人と人とがコミュニケーションし合う場として事務所が問い直され、それが家の本来もっていた機能に徐々に近接してきたことが、松本さんに「離れ」というキーワードを想起させたのだろう。
こうした気づきは、名作住宅と呼ばれる建築が、別の用途に転用される可能性を開かせるものではないだろうか。





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本野精吾Motono Seigo
もとの・せいご/1882年東京生まれ。1906年東京帝国大学(現・東京大学)工科大学建築学科卒業後、三菱合資会社に入社。08年武田五一に招かれ、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授。09~11年ベルリン王立応用美術博物館附属学校(現・ベルリン芸術大学)留学、西欧の近代建築に直接触れる。27年日本インターナショナル建築会を設立。44年逝去。
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