現代住宅併走

応接室(主室)。ピークに達した後、建築家にはどのような道がありうるのか。新興数寄屋によりピークに達した吉田五十八の場合は、この部屋によく表れている。写真/普後 均

2019年 夏号数寄屋でもなく新興数寄屋でもない

作品/「吉屋信子邸」
設計/吉田五十八

応接室(主室)右手の上部に注目。社寺風というか民家風というか、新興数寄屋では見られなかった要素が顔を出す。写真/普後 均
玄関。欅の厚板は、木口(こぐち)まで〝貼り物〞。写真/普後 均

 吉田五十八の影響くらい説明しにくいものはない。なぜなら、現代、世間一般につくられているちょっと高級なビルの中の料亭やモダンな和風旅館は、ことごとく吉田流を取り入れることで、美学的には伝統と近代、構造的には木造と鉄筋コンクリート造の矛盾を調停して成り立っているからだ。こんなに広く影響を与えると、逆に、どこが吉田の影響なのかかえって見えなくなってしまう。
 吉田流の伝統的木造住宅のつくり方を、
「新興数寄屋」
 と呼ぶ。江戸時代に発し、明治・大正と連綿と続く伝統的数寄屋を、昭和に入ってから吉田が革新したから「新興」を頭に付ける。
 新興数寄屋が広まったのは、旧来の数寄屋が美学上も構造上も時代の流れに合わなくなったからだが、加えて、吉田が新しいやり方を誰でもわかるように宣言したからだった。建築家による宣言といえばすぐ大正12(1923)年の7人の青年建築家による〝分離派宣言〞が思い浮かび、言葉の力と造形の力がコンビを組んだときの爆発力を想うが、同じことを吉田はひとりでやった。分離派はそれまで主流であった欧米の歴史主義に対し、吉田は旧来の数寄屋造に対し。
 吉田の宣言は、昭和10(1935)年、『新建築』誌上に、「近代数寄屋住宅の明朗性」と題した論文として発表され、まず冒頭で、ル・コルビュジエとヴァルター・グロピウスに影響を受けていると語り、続いて〝平面〞〝広縁〞〝天井高〞〝柱と壁の部面〞の4項目に分けて新しいやり方を述べるばかりか、なんとそれを5枚の図を使って図解して見せる。
 20世紀の建築のモダン化は、分離派だけでなくたくさんのグループが宣言とともに推進しているが、図解付きはル・コルビュジエと吉田のふたりだけ。吉田は、ル・コルビュジエを強く意識していた。
 図を見ていただこう()。第1図は、伝統の畳式と西洋の椅子式のあいだに起こる視線の高さの矛盾を調停する広縁のあり方を示す。
 第2図の旧来の数寄屋は、第3、4図と段階を追って近代化すると、第5図の新興数寄屋に至る。

①~④は、長押などの見える部材数を減らし、区切られた面の数が減っていくことを表している。出典:『昭和住宅物語』(著者:藤森照信/新建築社)
玄関側の外観。伝統とモダンの巧みな融合はさすが吉田。写真/普後 均
主室につながる和室。定番の床柱がないことに注目。写真/普後 均
戸袋に脚を付けた例は日本初。写真/普後 均
さりげない外観。でも縁側の下の闇は注意深く払う。写真/普後 均
門と塀。強さを減じ、主人が女性であることをさりげなく示す。写真/普後 均

 壁の柱や長押(なげし)をはじめ天井の棹など、消せる部材は消してモダン化が実現している。ただし、面の組み合わせのポイントとなる柱や鴨居は消さないし、畳をはじめ床(とこ)などの床面(ゆかめん)には手を付けない。
 昭和10年に宣言を出し、翌11(1936)年に、「吉屋信子邸」「杵屋別邸」など5作を一気に世に問い、世間と建築界で不動の地位を確立する。 今回、訪れた「吉屋信子邸」は、昭和11年の牛込の初代が空襲で焼失した後、戦後すぐ昭和25(1950)年、麹町に2代目を建て、さらに昭和37(1962)年、鎌倉に移ってからつくった3代目となる。初代、2代と新興数寄屋でまとめられているが、3代はどうか。
 まず外観から。一見すると伝統的だが、よく見ると独特で、たとえば屋根は、頂部の棟と左右の下り棟は伝統の瓦なのに、屋根面そのものはスレートで葺いている。それまでのように日本瓦を使わなかったのは、傾斜をゆるくし、厚い焼き物の瓦を薄い天然スレートに変えることで、屋根の視覚上の重さを軽くしたかったのだろう。
 屋根の下に、深い軒が生む軒下の暗がりとオープンな縁側が見えないのは、これぞ吉田流で、日本の旧来の数寄屋が見せ場とした深い軒と縁側を吉田は嫌った。深い軒の出と縁側は、それぞれ軒下と縁の下というふたつの暗い水平の帯を立面にもたらすが、その暗さを払う。
 ふたつの暗い帯は、たいていの日本人にとってあまりに自明で、空間上の無意識に属するが、近代的建築家たる吉田は、その無意識を意識し、払った。深い軒の出を欠くヨーロッパ建築の、暗がりをもたない立面を意識しての選択だった。
 軒下と縁の下の闇を払い、縁側という内か外かわからないようなあいまいな空間を消し、建築の立面をファサードとして成り立たせたいという欲求が吉田にはあったにちがいない。そう思われるのは、この家の引き戸の造りで、伝統的造りにしては異例なまでに縁取りが厚いし、引き戸を納める戸袋も強い存在感を示す。
 建築家にとって雨戸は難敵で、戸袋は下手をすると目尻にばんそうこうを貼ったようになってファサードをだいなしにする。戸袋をどう納めるかは、アントニン・レーモンドや前川國男があれこれ工夫しているが、ここでは吉田は、戸袋の下に2本の脚を付け、戸袋がついでの造りではなく地面に自分の脚で立つ小さな建築であることを示した。私の知る限り、このような戸袋はほかにない。  

執筆のための書斎。写真/普後 均
寝室。右手奥に造り付けの鏡台。写真/普後 均
鏡台は、女性用寝室には重要なアイテムだった。写真/普後 均

 中を見てみよう。
 中心の部屋となる椅子式の主室(台所、食堂、応接室)と畳の和室の両方とも、柱も、鴨居も天井の回り縁も太く、垂直と水平の線がクッキリハッキリ表現されているが、こういう線材の強調は昭和10年の宣言にはなかった。宣言は、線を弱めたり消したりして、面の組み合わせを前面に出していた。ただし、宣言どおりの造りもあり、たとえば畳敷きの床の間を見ると、これだけ幅がある床の間なのに、床柱も棚もなく、太い材と細い材で枠取られたいくつかの面が〝構成の美〞を見せる。構成の美は、グロピウスが認めた唯一の美。
 この家は、新築ではなく、明治の頃に建てられた住宅を山側に動かし、吉田が切り刻んで新しくしているが、おそらく、この床の間も、位置と大きさは昔のままで右手にあった床柱を抜き、その右側の違い棚と地袋を取っ払ったにちがいない。
 昭和10年の宣言とは異なる造りは見られるものの大筋は宣言の延長上にあると判断されるなかで、ひとつだけ延長上とは言い難い表現がある。主室の柱の上部にある梁や桁がその断面をむき出しにして目を引きつける。木の柱の上部にこういう強調を設けるのは、歴史的にいうと寺院の〝組み物〞にちがいなく、旧来の数寄屋とも新興数寄屋とも異なる。
 おそらく、今回の改造を進めるなかで天井裏から現れ出た梁と桁をどう扱うかの思案中に、宣言どおりにすべて天井裏へと隠すのではなく、梁と桁を切って断面を表現として露わにすることのおもしろさに気づいたにちがいない。古屋の改造だからこその新しい表現となった。

吉屋信子邸(現・吉屋信子記念館)写真/普後 均

 梁と桁の露出を含め、全体を見終えた後の印象は、20年ほど前、今はなき新興数寄屋の代表作「杵屋別邸」を見たときとは結構ズレてしまい、降幡廣信の古民家再生に近いものを感じた。
久しぶりに訪れた吉田五十八作品で一番魅力的だったのは玄関の内外で、とりわけ中は、斜めの腰掛けといい、踏み込みの手すりといい、吉田流の〝芸っぽさ〞が少ないのがすばらしい。とはいっても吉田流は健在で、踏み込みに使われている厚い欅の板は貼り物で、なんと、薄くはいだ板を、板面だけならまだしも、木口(こぐち)までそのまままわして厚さを出している。こんなことをしたのは吉田だけ。〝吉田ウソッパチ〞の面目躍如。

  • 吉田五十八氏の画像

    吉田五十八Yoshida Isoya

    1894年東京の太田胃散創業者の息子として生まれる。幼少より母親に伴われ、歌舞伎界になじみ、後には歌舞伎の舞台で「プロ」として長唄を歌うまでになる。東京美術学校(現・東京藝術大学)で岡田信一郎に学び、1923年卒業後、表現派系のデザインを試みたが、渡欧して伝統に目覚め、数寄屋造のモダン化を図り、新興数寄屋を打ち立てた。戦後の旅館や料亭で影響を受けないものはないだろう。しかし、なぜか茶室は手がけていない。
    写真提供/東京藝術大学

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。