現代住宅併走

一見するとただの家だが、よく見ると、十字形の立面といい、右手の前庭の高すぎる土盛りといい、普通ではない。写真/普後 均

2019年 春号ル・コルビュジエの先へ

作品/「O邸」
設計/吉阪隆正

窓の外側に3階からの壁が垂れて見えるという謎の納まり。写真/普後 均
窓の外の手すりも謎の造りを見せる。写真/普後 均

 住宅としての内容もデザインも不明のまま〈O邸〉を訪れてみようと思ったのは、手がけたのが吉阪隆正だったからだ。
 日本近代を専門とする建築史家として今和次郎に発し吉阪へと続く思想の流れにかねて心を寄せてきたし、27年前、45の齢で建築家としてデビューした折も、吉阪の文に突破口を開いてもらっている。
 地下鉄を降りて地上に出てビル群の裏側の住宅地に入るが、それらしいのが見当たらないからもう一度歩きなおして、やっと建築家の家らしいのが目に入った。庭側のファサードが十字架状というか、3階建ての2階部分だけを左右に突き出している。
 ブザーを押すと、新しいオーナーが迎えてくれる。さっそく入手の事情をうかがうと、新聞広告に手頃なのがあったので不動産会社に問い合わせると、「老齢の建主が階段の上り下りが難しくなり、これまで2度売りに出したが、買い手が現れると決意が揺らぎ2度ダメになった。今度はもう引っ越したから大丈夫……」。
 建主のOさんはこの家にただならぬ愛着をもっておられた。
 Oさんは、吉阪の設計事務所“U研”の大黒柱であった大竹十一(じゅういち)の早稲田大学時代の友人で、それで吉阪に設計を依頼している。吉阪に頼んだ建主は決まって強い愛着をもつが、吉阪の人柄によるものなのか作風によるものなのか。
 新しい持ち主に案内されて1、2、3階とひととおり見ても、階段が家のスケールに比べ目立つほかは、構造も平面も形もとりとめがなく、取材者としては少し焦る。これまで訪れた吉阪作品のような強い個性は感じられず、反対にヘンな造りばかりが気になる。
 たとえば、2階主室(居間、厨房、食堂)の窓まわりの納まりはどうだ。なぜか、窓の上端が上階の梁(壁)の下に納まらず、上階の壁が窓枠の外側に間隔を置いて少し垂れているではないか。こんな納まりは初見。
 窓の下のほうもヘンで、窓台にあたる位置には水平に大きな木材が走っているし、その下の壁にも太い大きい木の出っ張りが走っている。飾り棚というが、ここへ何を飾れというのか。窓の外側の窓台的位置にはパイプが並ぶが、ここに植木鉢でも置こうというのか。
 窓まわりのあまりな異常さを外から確かめようと一旦外に出て眺めてみると、謎めいた内観と反対にしごくあっさり納まっている。十字架状の平坦な面が立ち上がり、柱と梁は面の内側に隠れ、面から少し引っ込んでガラス窓がはまるだけ。十字架状でなければ建築家の手になるとは気づかない。

2階主室より階段を見る。写真/普後 均
階段をこれほど強調する住宅も珍しい。空間の上昇感を強調したかったのか、あるいは階段室こそこの家の勘所と考えたのか。<br>バウハウス系のモダニズムにはないル・コルビュジエ系モダニズムならではの造り。写真/普後 均
階段は独立し一気に上がる。写真/普後 均
2階主室の全景。写真/普後 均

 普通の柱と梁の組み合わせからなるラーメン構造のように外からは見えるのに、なぜ室内からは窓の外側に壁が小さく垂れていたのか理解できない。
 謎は遅れて現場に到着したU研出身の齊藤祐子さんに聞いて解ける。齊藤さんが、早稲田の建築の1年生だったときの最初の課題がO邸のパースだった。

1階の旧子ども室。庭より沈む。写真/普後 均
旧子ども室より廊下を見る。写真/普後 均

 構造は純粋なラーメンではなく、梁間方向は普通の四角な梁が入るが桁方向は梁に重ねて壁梁(かべばり)形式をとり、荷重を受ける壁の背丈を高くするために窓枠の下まで出てしまったのである。
 そんなヘンなことをした原因は2階の左右への出っ張り部分にあり、出っ張りを壁梁で支えるためだった。普通なら片持梁で支えるのをわざわざ壁梁にした理由は、4本柱により生まれたラーメン構造の外に別に出っ張り部分が付加したことを構造としても表現したかったからだという。ヘンな構造をちゃんと理解することができた。2階をわざわざ張り出したのは、ル・コルビュジエのピロティにならったにちがいない。
 中心の4本柱のラーメン部分はル・コルビュジエのドミノを意識しているとすると、ドミノにピロティを組み込もうというのがこの家の意図だったのではないか。ル・コルビュジエはまずドミノ・システムを、遅れてピロティ形式を発表しているが、吉阪はふたつの一体化をこの家で試みた。しかし、ふたつを一緒に入れるにはこの家は小さすぎて随所に無理がいったのではないか。この構造に近い例としては「吉阪自邸」(1955)や国分寺の「十河邸」(56)などが知られている。

廊下より旧子ども室を見る。写真/普後 均
台の下に、沈んだ旧子ども室から屋外に出るための足掛け。写真/普後 均
3階は両親の和室であった。写真では見えないが、外観の屋根が和風の軒先になっているのはそのため。写真/普後 均

 吉阪の造形的資質に合っていたのはマッシブさを可能にする壁構造にちがいないが、その一方で、ラーメン構造の「広島ピースセンター」(55)と「香川県庁舎」(58)で世界をうならせた丹下健三とは別のラーメン構造のあり方を求めて自分なりのラーメン構造を試みていたのかもしれない。
 最初にざっと眺めたときから気になっていたもうひとつのヘンな造りにも触れておこう。
 1階は1室からなり、当初は子ども室で今はピアノ練習室になっているが、なんと床レベルが玄関より低く、1尺(約30㎝)ほど沈んで入る。沈むだけでも意図不明なのに、窓から南の庭を眺めると地面が盛土のせいで上がり、沈下が強調されている。土中への沈下がきわめて意識的になされたのは、外に出るために小さなステップが左手の壁の途中に取り付けられていることからも明らかだろう。
 例のない半ば地中に沈む部屋は72歳を迎えたばかりの建築史家の脳を強く揺さぶり、縄文時代の竪穴住居を浮かび上がらせる。もうひとつ以前に取り上げた「三澤邸」(未完/『TOTO通信』2016年新春号)も浮かんできた。
 吉阪隆正は、ル・コルビュジエの奥にというか先に、土と大地を看取していたのかもしれない。

  • 吉阪隆正氏の画像

    吉阪隆正Yoshizaka Takamasa

    よしざか・たかまさ/1917年東京都生まれ。少年時代を外交官であった父の任地ジュネーブで過ごす。帰国して早稲田大学に入り、今和次郎について民家を巡り、また、民家調査のため中国北方に出かける。戦後、ル・コルビュジエに学び、早稲田大学教授として、またU研究室のボスとして、多くの建築家を育てる。戦後の建築界では異例の視点とデザインで活躍したが、80年、63歳の若さで病没した。もしもっと生きていてくれたら、と惜しまれてならない。象設計集団は行動も設計も吉阪の流れを汲む。
    写真提供/U研究室

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。