古写真でみる建築家のアトリエ

議論するスタッフか。カーンからプログラムが書かれた紙が渡され、適正寸法を調べながら正方形で構成していくところから始まった。 Louis I. Kahn Collection, University of Pennsylvania and Pennsylvania Historical and Museum Commission

2023年 夏号朝までつづく禅問答のような議論

古写真を発掘し、昔の建築家のアトリエをのぞく。この場所で、名作が生まれた。

  • ルイス・イザドア・カーンLouis Isadore Kahn

    ルイス・イザドア・カーン氏の画像
アトリエやスタジオというより事務所=Officeという雰囲気が漂っている場所。一番奥にカーンらしき姿も確認される。 Louis I. Kahn Collection, University of Pennsylvania and Pennsylvania Historical and Museum Commission

アトリエやスタジオというより事務所=Officeという雰囲気が漂っている場所。一番奥にカーンらしき姿も確認される。

カーンから与えられつづける「問い」。

 ルイス・カーンの口癖は、「2時間ばかりやっていかないか」であった。その声をかけられた所員は覚悟しなければならなかった。2時間で終わることは決してなく、夜を徹することを意味したからだ。そして、そこで行われたのは必ずしも製図ばかりではなかった。
 ルイス・カーンの事務所の特徴は、建築を創作することと同じくらい、「建築とは何か」について議論し、深く考えをめぐらせ、そしてそれを建築にすることが求められた点にある。そのため、カーンは昼夜製図室にいて、製図板から製図板へ渡り歩き、休みなく一人ひとりのドラフトマンとのエスキスを繰り返していくのだが、その場にいる2、3人を捕まえては雄弁に語りはじめ、自分の理論や原理を説明し、平面でも断面でもディテールでも、「デザインするうえで何が重要なのか」をくわしく説いてまわった。結果、所員は製図する時間を削り、カーンとの議論に没頭することになるのである。
 その過程を繰り返すことで、カーンの頭のなかで全体像が構築され、それをバラバラにして所員に分担させた。つまり、所員は階段の担当、トップライトの担当、といった具合に振り分けられ、全体像がわからないままにスタディに取り組まなければならなかった。たとえば、劇場を担当していたスタッフのひとりは、数カ月ものあいだ客席の配置だけをスタディしていた。カーンは最初に「劇場は観客が観客に出会う広場だ」という言葉だけを発し、そのスタッフは日夜その言葉を頼りに考えつづける。カーンははじまり(初源)を大事にしていた。劇場とは何か、観客とは何か。その初源は何かという具合に問いかけが始まり、模型や図面での会話を超えて、言葉での対話がカーンの思考を刺激した。それこそがカーンが所員に求めていたもので、カーンが芸術家や哲学者として評される理由はここにある。
 そのため、カーンの事務所は建物の4階と5階の二層を間借りしており、5階は大学のスタジオのような雰囲気で製図板が並んでおり、若手がカーンと議論し製図する場で、4階はベテランのスタッフが建築として実現させるための場として棲み分けがなされていた。

 カーンの部屋は4階の応接間の横にあり、カーンは、口にタバコをくわえながら、黄色いトレーシングペーパーに木炭かやわらかい鉛筆でスケッチをする。気分が乗ったときは、そこにパステルをいれた。所員が描いた図面を下敷きにすることもあれば、自ら直接描くこともあった。幾何学的なパターンが描き込まれ、その各単位の内部および各単位相互間に生まれる空間の組織を検討していく。そして、スケッチはだんだんと緊密になり、建築の姿が現れてくる。ウォルター・マッケイドによれば「彼はすばらしい話し手である。しかも早く雄弁で、同様な意味でスケッチの達人でもある。彼との対談は、トレーシングペーパーの上に描かれた簡潔で強調的な濃い鉛筆のスケッチの連続だともいえる。彼はロールを流してダイヤグラムを埋める。一晩中つづけて紙がなくなるとき、朝がしばしばくるのだ」。
 そのようなカーンの事務所には、同時代の雑誌や書籍はなかった。あらゆる影響を排除するかのように、寄贈された雑誌などはすぐに処分された。その一方で、古典建築の図集やボザールの書籍、古い百科事典などが備わっていた。歴史を出発点として考えていたカーンは、建築のことでも初源を求めていたのである。そして、弟子たちが揃って口にする回想は、「Don't be a secondary Kahn. I am myself, you are not.(第二のカーンになってはならない。私は私だが、あなたは私ではない)」の言葉である。確かに、第二のカーンは生まれていない。しかし、カーンの思想は広く世界中に流布している。それは、カーンの教育者としての影響力を物語っている。弟子のひとりである香山壽夫によれば、カーンが講義に遅刻することはなかったという。なぜなら、「学生との議論が一番の勉強になる。それを逃すことほど惜しいものはない」からだ。

 設計事務所のリーダーシップのあり方は難しい。プロジェクトが世界に点在し、ボスが多忙になるほど、スタッフとの関係は希薄になりがちだ。指示待ちのスタッフであれば、ボスの不在時は手持ち無沙汰におちいりがちだろう。しかし、それが晦渋な「問い」を解く指示だとすれば、一条の光明を求めて、ボスの不在時こそチームで議論を活発に交わす有機的な組織となる秘訣なのかもしれない。

幾何学的なパターンから始まるカーンのスケッチ。 Louis I. Kahn Collection, University of Pennsylvania and Pennsylvania Historical and Museum Commission

幾何学的なパターンから始まるカーンのスケッチ。

  • ルイス・イザドア・カーン氏の画像

    ルイス・イザドア・カーンLouis Isadore Kahn

    1901年、当時ロシア帝国のエストニア地方にてユダヤ人の家系に生まれる。05年にアメリカのフィラデルフィアに移住。ペンシルベニア大学卒業後、事務所での修業とヨーロッパへのグランド・ツアーを経て、35年にフィラデルフィアにて独立。ウォールナット(Walnut)通りと17丁目の角にあった日刊紙イブニング・ブレティンの最上階の5階と4階に事務所を構える。57年から74年までペンシルベニア大学にて教鞭をとる。事務所から徒歩20分の距離というのが重要であった。1974年逝去。
    Alamy/PPS通信社

  • 山村 健氏の画像

    山村 健Yamamura Takeshi

    やまむら・たけし/1984年山形県生まれ。2006年早稲田大学理工学部建築学科卒業。06年バルセロナ建築大学留学。09年早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。12年同大学院博士後期課程修了。12~15年ドミニク・ペロー・アルシテクチュール勤務。16年YSLAArchitects設立。早稲田大学専任講師などを経て、20年東京工芸大学准教授。博士(建築学)、一級建築士。