現代住宅併走

郊外住宅の丘を上っていくと、擁壁を鷲づかみにした不定形の小住宅が現れる。 写真/普後 均

2022年 夏号狭山丘陵の灯台

作品/「プーライエ」
設計/鯨井 勇

「まだ住み足りない気持ちです。後どのくらい住めるか」
 と、鯨井佳子さんは言われた。
 48年前、『都市住宅』誌に植田実編集長の解説付きで発表されたとき、強い印象は湧いたが、建築史を専攻する大学院生には言語化不能ゆえ、記憶の引き出しにしまい込んだまま忘れてしまった。
その後、大学院生は建築史家となり、古今東西の建築を巡り、考え、建築の本質について思い至る。建築には記念碑的建築と住宅のふたつの別があり、こと住宅については仮設性を本質のひとつとし、あり合わせの材を集めて自分でつくる。
仮設性については日本列島は恵まれ、木造は石造よりつくりやすいうえに変えやすく、その結果、歴史上では仮設性を高い表現まできわめて利休の茶室が生まれているし、現代においても〈プーライエ〉のような手づくり極小建築が、「現代の住宅設計を巡る論や作品のなかで、私の夢を見失いそうになったら、また狭山丘陵を訪ねてみたい」(植田実)
 と、時の名編集長をして書かしめる。
それからおよそ50年、建築史家はやっと狭山丘陵を訪れた。東京郊外を北西に向けて走る西武園線が丘陵にあたって止まった位置に西武園駅はあるが、開発者の堤康次郎がこの盲腸線の本線を八ヶ岳の麓まで延ばす計画をもっていたという。

上部の敷地への上り階段を入口としている。 写真/普後 均
上り階段の右手が入口ドア、左手は擁壁。 写真/普後 均
室内より入口側を見る。 写真/普後 均

 狭山丘陵のこの郊外住宅地は、半世紀前、西へ拡大する東京の西部開拓劇の先端に位置していたものの、開拓はここで止まったことが駅のまわりに広がる住宅地を歩いてみてわかる。住宅地は駅から離れて坂道を上がるにつれて空き家が目立つ。
 目指す家は坂道を上がりきった位置にあって、高い擁壁の上に立ち、背にはさらに高い擁壁が聳え、その上には地元集落の古い墓地が広がり、その奥には昔ながらの武蔵野の光景が、堤康次郎の目線に沿えば八ヶ岳まで続く。西に視線をまわせば低い山々のかなたに富士がのぞき、さらにまわせば東京の街のあかりの先にスカイツリー。
 東京の西部開拓50年の歴史を〈プーライエ〉が印象深く見せてくれるのは、灯台的造形を特徴とするからだ。灯台は、新しく開かれた航路を示すため、岬の切り立った崖の上や離れ小島の岩礁の上に、岩の角を鷲づかみにしてスックと立つが、〈プーライエ〉も西部開拓の先端の高い擁壁の上に、擁壁の角を鷲づかみにして立っている。具体的には、平らな上の敷地への上り階段を玄関に使い、その上部を部屋として擁壁の外側までせり出す造形がこの家の超常的印象を生む。

当初部の主室(1階)。左手の窓から街を見晴らすことができる。右手は増築部。 写真/普後 均
当初部の床の穴から、上り階段の上部の小室へ降りる。 写真/普後 均

 そんな普通やらない造形を選んだ理由をなぜか設計者の鯨井勇さんは書いていないが、半世紀前の時代の空気と鯨井さん夫妻の気持ちが、こんな特異な造形に結晶化したにちがいない。
 当時、建築界の前線は、高度消費社会の到来を見越すメタボリズムの黒川紀章と、高度消費社会に距離を置き前衛美術を強く意識する磯崎新のふたりがリードし、あろうことか磯崎は、「きみの母を犯し、父を刺せ」とか、「建築の終焉」とか、「廃墟」とか言い、つくる建築は人けの消えたガランドウの空間ばかり。
 当然のように消費より思想や文学に心をいたす学生は、磯崎に惹かれていった。建築家の言説は、建築という総合表現の一部しか表さないが、それを読む学生は一部を全部と誤解する特権をもち、その特権をフルに発揮してその後の人生を決めてしまう。
 鯨井さんもそうで、思想的・文学的であろうとし、日本なら白井晟一、世界ならアメリカのパオロ・ソレリのところに行こうかと思ったと言う。もし行っていたら、白井とソレリの言葉と現実のあいだのからくりを目撃し、幻滅したことだろう。
 幸いというべきか、思想と文学の深さと、深いがゆえの暗さに沈もうとしていた青年はひとりの女性との出会いによって特権的に救われ、新しい人生の方向を決めた。その人が美術大学で絵を学ぶ佳子夫人だった。
 で、青年は、父が入手してくれた新興住宅地の格安物件の土地の上にふたりの巣〈プーライエ〉を設計し、それを思想と文学だらけの卒業論文の末尾に新しい人生の道としてのせて卒業する。卒論の住宅の全体形は実現案に近いが擁壁鷲づかみ状態にはないから、卒業後の実施段階で灯台化に思い至ったのだろう。

右奥が当初部で、右手前が増築部。中庭を挟んで左手はアトリエ棟。 写真/普後 均
中庭越しに増築部を見る。 写真/普後 均
中庭からアトリエ棟を見る。 写真/普後 均

 あり合わせの材を集め、仲間と一緒につくった長い経過は『都市住宅』にのるし、その後の家族の成長と家の増改築の様子もほかの雑誌で取り上げられ、灯台化の原形は守られてきているが、ひとつだけ不満があり、当初の下見板張りが現代のセメント系サイディング張りに変えられている。下見板張りはアメリカの西部開拓のなかで完成した木造技術にほかならず、ここにこれ以上にふさわしい材料はない。
 聞くと、「下見板に戻したいが、付き合いのある隣近所の人に防災上の心配をさせたくないので」。〈プーライエ〉の起点とその後の半世紀の一家と家の変遷をうかがい、冒頭の夫人の言葉が腑に落ちた。
 が、当時だったら取材しようとは思わなかったにちがいない。鯨井さんは“野武士”の同世代にほかならず、野武士は『都市住宅』も植田さんも、自分たちより一世代上の東(あずま)孝光さんや宮脇檀(まゆみ)さん世代を代弁する仮想敵とみなしていたからだ。作品と考えも違い、「都市住宅派」は小住宅であっても社会と都市に向けて開いているのに対し、自分たち野武士は自閉する、と覚悟していた。具体的に違いをいうと、東孝光の「塔の家」(1966)は1階から外の通りがちゃんと見えるのに対し、安藤忠雄の「住吉の長屋」(76)も伊東豊雄の「中野本町の家」(76)も、外に向かっての窓すらない。ただし中庭への窓はある。
〈プーライエ〉は、主室の角には大きな四角い窓があき、郊外住宅地の様子を気持ちよく眺めることができる。
 鯨井夫妻が後どのくらいか住んだ後も、これだけ印象深いつくりだから次代の人によって住みつづけられ、変わりつづけるにちがいないが、鷲づかみだけは変わらないでほしいし、いつの日か下見板も復活してほしい。東京の西部開拓史を語る灯台なのだから。

左手の石垣の上が昔からの墓地。 写真/普後 均
  • 鯨井 勇氏の画像

    鯨井 勇Kujirai Isamu

    1949年、東京に生まれ、日本大学理工学部建築学科の近江栄研究室(近代建築史)に学んで72年、卒業。73年、〈プーライエ〉を実現。74年、末松小崎建築設計事務所で働くかたわら、〈プーライエ〉の増改築を続け、大きな増築としては2014年に庭を挟んで敷地の奥に2階建てを建てた。画家の夫人のアトリエ兼多目的室にあてられ、茶室も含まれている。こうした手づくり住宅の住人はヘンジンとみなされて周囲と断絶しがちだが、良好な関係を保つ。

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞、「ラ コリーナ近江八幡 草屋根」(15)で日本芸術院賞。