特集
2022年 春号 主屋を変革する増築‑ CaseStudy#4‑RC造と鉄骨造に木造で増築する
作品/「代々木の渡廊(わたろう)」
設計/平井 充+山口紗由
平井充さん、山口紗由さんが設計した清家清によるふたつの近代住宅をつなぐ渡り廊下は、空間と空間以上に、住み手同士の関係に大きな影響をもたらした。
取材・文/橋本 純
写真/傍島利浩
清家清のモダニズムと向き合う
「代々木の渡廊」は、清家清(1918-2005)が設計し1970年に竣工した「代々木の家」と、後にその施主の娘夫婦のために南側に近接して建てられた独立住宅をつなぐ木造の渡り廊下の増築である。
敷地は三角形に近い変形四角形で約300㎡ほどあり、変形十字路の北東の角地で、大谷石の堂々たる擁壁の上に位置する。東側に眺望が開けているので、主屋を西側に寄せた東向き配置が決定されたのであろう。主屋は鉄筋コンクリート造地下1階地上2階建てである。大谷石の擁壁に穿たれた門を抜けて地下1階の玄関扉を開けると、大谷石敷きの広々としたエントランスがあり、そこがすぐに階段室となっている。階段が動線の中心であり廊下はない。1階の北側は天井高を大きくとったリスニングルーム、階段室を挟んで南側にLDKがある。黒く塗られた天井は高さ2400㎜ 、フローリングのダイニングにカーペット敷きのリビング。東面は左右いっぱいにFIXのガラスが嵌まり、低く抑えた生け垣越しに眺望が楽しめるようにつくられている。部屋の中央に立つH形鋼の柱は清家の「斎藤助教授の家」の円柱を想起させるが、この上部には大きな壁梁が通っているので、補強として入れたものでもあろう。2階は寝室と子ども室である。近代の核家族住宅の原則に則りながら清家清という建築家の作家性がよく表れた住宅である。
近接する娘夫婦の家は、鉄骨の棟持柱とその両脇の2層分の鋼製ブレースが特徴的だが、この架構形式も清家がよく用いたものである。リビングは主屋の庭側にも開口を設けているが、水まわりを主屋側に設けているため、主屋と距離をとって独立性を保っている印象がある。清家は自邸だけでなく「久が原の家」や「東ヶ丘の家」などいくつか主屋に増築というプロジェクトを手がけているが、それらに比べると両者の関係がはるかに希薄な2棟である。これが「代々木の渡廊」計画のコンテクストである。
近代建築を改修する愉しみ
設計者でメグロ建築研究所を主宰する平井充さんは、大学、大学院で学びながら、吉原設計事務所に勤務する。事務所を主宰していた吉原正(1922 -2014)は、F・L・ライトに師事し東京藝術大学で教鞭をとったことでも知られる天野太郎と共同事務所を構えた人物である。平井さんが同事務所に入所したときは、天野はすでに亡く、吉原も高齢であった。そのため事務所の仕事にはこれまで設計した建物の改修が多くあり、天野の代表作である「武蔵嵐山カントリー倶楽部クラブハウス」の改修は、吉原が事務所を閉じた後も平井さんが継承し、彼の代表的な仕事のひとつとなっている。
21世紀になって事務所勤めを始めたにもかかわらず、20世紀の近代建築の改修を仕事として与えられ、次第にその改修自体に興味をもつようになった。平井さんは、近代建築の改修は原設計のなかに建築家の思想が見え、それを読み解き、読み替えていくことが、民家のようなアノニマスな建物の改修よりおもしろいのだという。
そしてあるとき、独立直後に手がけたリノベーション「三姉妹の家」(2009)の施工者であるオカダコーポレーションから連絡があり、「平井さんはリノベーション好きですよね」と相談を受けたのがこの仕事の始まりだった。
101歳の依頼主
今回の増築の依頼主は今西芳之(1919-2021)といい、主屋の施主でもある。主屋はオカダコーポレーション(当時は岡田建設)の施工ではなかったが、元施工者がすでに亡くなっていたため、今西さんは清家の建物の施工を数多く手がけているオカダコーポレーションに相談し、平井さんが建築家としてかかわることになった。
平井さんに依頼をした時点で今西さんは101歳だったが、杖もつかずに階段を上り下りする元気な方であったという。そしてこの場所に渡り廊下を増築することを考え、スケッチも用意していた。
今西さんがこの増築を欲したのは、自分のために食事の世話をしてくれている娘への気遣いからであった。隣接していても娘夫婦の家と直接つながる動線はなく、2世帯住宅のようでありながら独立した戸建て住宅のような関係だったため、娘夫婦の家から主屋への食事の運搬は外部の急な階段を通るしかなかった。そこで今西さんは「10年もてばいい。自分がいなくなった後は解体・撤去が簡単なように」という条件で設計を依頼した。
6㎡の増築
主屋のユーティリティから娘夫婦の家の居室を結ぶこの廊下は、敷地の最奥部に位置する。それゆえ人手で搬入可能な材で構築されることが設計条件として課せられた。
柱を束立てにして軸組を構成し、方立を根太と垂木で挟んでボルトで留めて屋根と壁と床をつくるという、いたって簡潔な工法である。階段の段板を支える部分にのみ鉄骨を用いているが、それも職人がふたりで持てる重さのものである。壁面にはガラスを嵌めているが、階段部分は吹きさらしで気密はない。質感を考慮してヒノキ材を用い、仕上げはせずに組み上げている。わずか6㎡の増築で2棟がつながっただけでなく、これまでまったくの裏だった場所が隣地の庭を借景とした少し明るい場所になった。
機能不全の処方箋
この増築の発端は、2棟の隣接する核家族住宅の片方が機能不全を起こし、もうひとつの住宅から補助を受ける状態が発生したことによる。
さて、核家族住宅とは、かつての「家」からデモクラティックに離陸し、個として確立した近代人によって構成された最小単位の家族が住むための空間図式をもつ建物のことである。それは、互助共助という名の干渉や抑圧から解き放たれ、自由と平等を保障された夫婦を中心にして育まれる自立した家族のゆりかごである。
しかし核家族住宅はほどなく機能不全を起こしはじめた。それは前提とした個人の変容ないし前近代性に起因する。なかでも老いは核家族住宅において想定されていない個人の変容であった。そこに2世帯住宅という加齢による機能不全を補うための変異形が生まれた。家族なんだから助け合おうということで、かつての「家」に近い形式の住宅が、救世主のごとくもてはやされた。だがそこでは、時間とともにふたつの世帯の力関係が変化していき、最後は強者が弱者を取り込んで「家」化していく現実がある。
新たに多世帯住宅を構想し、互助や共助を含んだかたちの新しい生活像を構築しようという思想を否定したいわけではない。それはひとつの試みとして意味がある。しかしそれはポスト近代の正統な着地点なのか、ということはよく考えておかねばなるまい。かつての「家」的な空間が再来することで、悪しき社会制度が召喚されてしまう可能性がないとはいいきれないからだ。時として空間は制度を規定する。それゆえ私たちは、戦後民主主義の象徴であった核家族住宅の理想としたところを再考し、その延長上に着地する道筋を模索する必要があるはずなのである。それまでは近代の核家族住宅の理想を安易に捨ててしまうわけにはいかない。
清家が設計したふたつの建物の独立性、2世帯住宅のようでありながらじつは独立したふたつの戸建て住宅であり続けたこと、そしてそのように住み続けられたことは、清家と今西さんが共有した近代の核家族住宅の矜持の表れであったのかもしれない。そう考えると、ふたつの住宅の独立性を保持させながら軽くつないだだけの「代々木の渡廊」は、近代が生んだ核家族住宅が正しく更新されるまでの「理想」の生命維持装置として用意されたものだったのではないかと思えた。
増築前の外観(Before)
敷地の最奥で、隣家に対しても閉鎖的な空間だった。右手に「代々木の家」、左手に「娘夫婦の住宅」。今回の増築で両棟を接続させた。
メグロ建築研究所
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平井 充Hirai Mitsuru
ひらい・みつる/1974年北海道生まれ。09年工学院大学大学院博士課程単位取得満期退学。00~ 06年吉原設計事務所(旧天野吉原設計事務所)勤務。09年Drawing notes共同主宰。14年メグロ建築研究所に改組。
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山口紗由Yamaguchi Sayu
やまぐち・さゆ/1985年東京都生まれ。10年日本女子大学大学院家政学研究科住居学専攻修士課程修了。09年Drawing notes共同主宰。14年メグロ建築研究所に改組。
メグロ建築研究所のおもな作品=「重箱ハウス」(17)、「棚畑ハウス」(21)、「高脚楼」(21)など。