現代住宅併走

鉄筋コンクリートの回り階段は、昔は製図と施工の両方が、今も施工が難しい。 写真/普後 均

2021年 新春号面を打ち放す

作品/「赤星鉄馬邸」
設計/アントニン・レーモンド

これが正面、左手が回り階段。 写真/普後 均
回り階段を外から見上げる。 写真/普後 均
回り階段を下から見上げる。 写真/普後 均

 世界と日本のモダニズム建築には、私見によるとバウハウス派とコルビュジエ派のふたつがあり、まず前者が先行して世界を席巻し、続いて後者が分離独立し、ル・コルビュジエと縁の深い国でのみ主流となる。後者の最大の国がわが国で、コルビュジエの祖国フランスがコルビュジエを認めたのは日本よりずっと遅れ、戦後になる。
 日本のコルビュジエ派の始点となる東京のレーモンドとパリのコルビュジエのあいだには、1930年のコルビュジエの未完に終わった「エラズリス邸案」をレーモンドがパクって自分の別荘として実現するという確執があった。レーモンドは確かに強い影響を受けているが、一方、コルビュジエもレーモンドをパクった、と私はにらんでいる。ふたりは、20世紀前半のモダニズム成立期において、コンクリート表現を巡ってパリと東京で先陣争いをしていたとみるのが歴史的には正しい。
 先陣争いの日本側の舞台となったのは「レーモンド自邸」(24)「川崎守之助邸」(34)、〈赤星鉄馬邸〉(34)の3作で、幸い私は3作とも見ているが、今は〈赤星鉄馬邸〉が残るのみ。
 コルビュジエがレーモンドに学んだのは、打放しコンクリートの表現だった。コンクリートをどう表現するかは20世紀建築の大きなテーマのひとつで、“モルタル塗り”“斫り”“打放し”“研磨”の4つのうちの中核をなす打放しを巡って先陣争いが起こっていた。

 まずオーギュスト・ペレが23年「ル・ランシーの教会」で先駆け、すぐレーモンドが24年の「レーモンド自邸」で続き、その8年後、コルビュジエが32年「スイス学生会館」で試みている。レーモンドは世界で2番目であることに強い自負をもち、31年、フランスを代表する文化人ポール・クローデルの序文を得てフランス語で『レイモンドの家』を刊行しているが、この出版は、パリのペレとその弟子コルビュジエに向けてのメッセージだったにちがいない。
 事の順が錯綜するけれど、このメッセージを受けてコルビュジエはスイス学生会館で初めて打放しを試み、一方レーモンドはエラズリス邸案を木造に置き換え、さらに自分の工夫を加えて「軽井沢夏の家」(33)を手がけ、コルビュジエからパクリと批判された。
 ふたりの競争を、ここでは触れない項目も加えてフィギュアスケート風に採点するなら、コルビュジエ優位は、①ピロティ、②連続窓、③屋上庭園の3項目。レーモンド優位は、①打放し、②斜路、③充実したディテール、の3項目。
 確かにピロティ、連続窓は形全体を決めるから世界的にはコルビュジエ優勢にちがいないが、同じときに同じ会場で滑ったレーモンドは同点意識をもっていた可能性がある。

左手玄関から入り、右手の馬蹄形の回り階段で2階に上がる。 写真/普後 均
主室(リビング・ダイニング)は、丸柱で支えられ、庭に続く左手の窓は横長連続窓。梁が隠されている点に注目。全体にコルビュジエの影響が強い。 写真/普後 均
2階の書斎の暖炉。右手の棚の向こうの壁には丸い“ポチ窓”があく。コルビュジエにはないレーモンドならではの材料とディテールの充実に注目。 写真/普後 均
2階子ども部屋。 写真/普後 均

〈赤星鉄馬邸〉を久しぶりに訪れるにあたり、確かめたかったことがふたつある。ひとつは、今は後の塗装の下に隠れているが、世界最初期のコンクリート表現(打放し、研磨)について。もうひとつは、正面に突き出す回り階段について。
 まず打放し技術について。ポイントは型枠と、その左右の型枠を一定の隙間をあけて宙に浮くようにして支持するセパレーターのふたつ。型枠は、幅2尺ほど、長さ1間ほどを基本とし、堰板にはおそらく杉の幅3寸ほどが使われている。堰板に回り縁はないから、戦後に一般化するように量産化した型枠を現場に合わせて組み合わせたのではなく、現場に合わせて型枠をつくっている。
 1階ごとに打ち継ぐときに生じる“打ち継ぎ目地”はない。
 レーモンド事務所でこの建設に参加した杉山雅則さんに聞くと、「レーモンドの机の上にはペレの仕事の雑誌や本が山積みされており、しょっちゅう見返して参考にした」ということだった。なぜしょっちゅう見返したか疑問だったが、型枠をどんな寸法でつくり、どうセパレートするかなどの細かい要点を写真や図面から見抜こうとしたのだろう。
 セパレーターに型枠をどう固定したかは、固定の跡(今なら丸い凹み)がなく、謎。ホント、どうやったんだろう。
 塀も打放しでつくられているが、こっちの外側の型枠は本体とも庭側とも違い、定尺で量産した型枠を使っている。幅1尺ほどで、枠がまわり、堰板の幅は短い。塀も後にモルタルか何か塗られているが打ち放したときの状態はよくわかり、堰板同士の目地からノロは出ていない。ということは、堰板と堰板のつなぎには建築本体と違い“実”が入っていることになる。戦後の日本の打放しの秘術ともいうべき実入り目地がいつ始まるのかは謎だったが、この塀からかもしれない。定尺の型枠もこの塀が起源か。

塀も打放し。後に薄くモルタルを塗っているが、当時の技術をうかがうことができる。 写真/普後 均
外観。ライトの影響とみていいのではないか。 写真/普後 均

 続いて、正面に突き出す回り階段の不可解について。なぜ、門から建物にアプローチすると、まず回り階段がドンと突き出して迎えるのか。回り階段の脇から地味な表現の玄関に入ることになる。レーモンド自邸でもこんな奇妙な人の迎え方はしていなかった。
 このたび、ゆっくりじっくり見せてもらい、わかった。
 自分の影響を受けてコンクリート表現を開始したコルビュジエにライバル心を燃やすレーモンドにとって、正面に突き出す回り階段の外壁こそ勝負所だったにちがいない。
 スイス学生会館は直線と平面を旨とするモダニズム陣営のなかで曲面を初めて使うことで世界の若手、たとえば日本の丹下健三に強い印象を与えるが、しかし、その曲面は石(大理石と自然の割石)で仕上げられ、打放しは1階のピロティに限られていた。先行するペレの教会は、打放しを柱で使っていた。そこでレーモンドは、ペレもコルビュジエもやったことのない、面のコンクリート表現、それも曲面の研磨仕上げによってコンクリートも高級感をもちうることを強調しようと考えたのではあるまいか。
 回り階段の打放しの製図と施工の難しさはその筋ではよく知られ、コンピュータのない当時、製図ができたのは図学に長けた杉山さんだけだったと、一緒に働いた崎谷小三郎さんが言っていた。
 長大な住宅平面を真ん中で少し折って打放しの面を形づくり、その端部に強い印象の研磨による回り階段を据え、そこを正面アプローチとする。面の打放し、これがテーマだった。

  • 浦辺鎮太郎の画像

    アントニン・レーモンドAntonin Raymond

    1888年オーストリア領ボヘミア地方(現チェコ共和国)に生まれ、プラーグ工科大学(現チェコ工科大学)に学び、アメリカに渡る。フランク・ロイド・ライトとともに帝国ホテル建築のため来日し、1923年独立。そのもとから前川國男、吉村順三などが育ち、日本の20世紀後半の建築界をリードする一大人脈を形成した。世界的にみると、オーギュスト・ペレに続いて打放しコンクリート表現をリードし、コルビュジエもこと打放しについてはレーモンドをパクったと私はにらんでいる。76年逝去。
    ㈱レーモンド設計事務所提供

  • 藤森照信氏の画像

    藤森照信Fujimori Terunobu

    建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。