現代住宅併走
2018年 夏号垂直方向の連続性
作品/「土浦亀城邸」
設計/土浦亀城
文/藤森照信
写真/普後 均(土浦亀城のポートレイトを除く)
土浦亀城が1935年につくった自邸の〈土浦亀城邸〉について、本誌ではこれまで風呂場を扱ったものの、うかつにも全体は紹介していないことにこのたび気づき、取り上げる。
住宅全体の評価は、“初期モダニズム住宅の日本における代表作”“当時の姿を今に伝える唯一の現存作”“バウハウス派の木造モダニズムの傑作”、このくらいでいいと思うが、空間の構成についてはひとつ、あらためて考えておきたいことがある。
白い箱に大ガラスをはめることをもって旨とする世界と日本の初期モダニズム建築のなかで、土浦邸の空間構成にはほかとは異なる特徴が観察される。
まず敷地に入ると、階段を半階上って玄関に至り、玄関に入ると、また半階上がって居間。居間は南に向かっての吹抜けとなり、北側には食堂と台所が一体的に続き、ロフトとなる2階レベルには寝室が入る。
ここまでは、傾いた敷地の形状に合わせて半階を駆使してのレベル差解消法とも思われるが、問題は、居間の吹抜け空間と2階の寝室とのつなぎ方で、普通なら階段ですませればいいのに、半階上がった位置にちゃんと床を張り出し、そこにいったん上がった後、また半階上がって寝室に入る。半階上がった位置の踊り場的床の真下には、半階下がった玄関があり、階高に問題は生じない。そして寝室の吹抜け側の壁は日本風の襖で間仕切られ、開ければ寝室空間は吹抜け空間と一体化する。
初期モダニズム住宅に吹抜けとロフトはそう珍しくないが、吹抜けの中間に浮くように存在する踊り場的な床はなぜかようにつくられたのか、誰もが気になる。単調になりがちな吹抜けに変化と活気を与える土浦邸ならではの工夫だけに気になる。
昔、土浦先生にこの点をたずねると、答えは、「ダンスの音楽を奏でる場所として考えました。当時、モダンな若者のあいだではダンスがたいへん流行し、たいていのモボモガは銀座のダンスホールで生演奏にのって踊っていたのですが、私をはじめ前川(國男)さん、谷口(吉郎)さん、五井(孝夫)さんといったモダンな建築家仲間は、自分の家で踊りたいという夢があり、それを実現しました」。
実際にダンスは踊ったが、生演奏することはなく、蓄音器を置いてすませたという。
設計者の自覚としてはそのような目的であったとしても、建築史家としてはそれだけではないと言わざるをえない。なぜなら戦後のコルビュジエ派モダニズム全盛の時代にやや影の薄くなったこのバウハウス派の住宅の核となる吹抜けの居間には、玄関、食堂、踊り場、床、寝室といった場が、半階のレベル差で相互に貫入しあうような空間構成になっているが、こうした相互貫入的構成はモダンな建築家は一般的にはやらないからだ。
この問題について初めて話しあったのは、土浦邸を雑誌で取り上げて“再評価”の機運をつくってくれた建築ジャーナリストの植田実(まこと)さんとで、そのときはフランク・ロイド・ライトの影響という答えで一致した。
ライトは、日本につくった帝国ホテル(旧本館/一部が明治村に移設され現存)を見ればわかるように、半階分ほどの階段を多用したことで知られるが、大学を卒業してすぐにライトに学んだ土浦の自邸にはその影響が伝わっていると考えていいだろう。
では、なぜライトは半階のズラシを多用したのだろうか。
ライトが20世紀建築を切りひらいた功績の第一は、空間の連続性(流動性)にある。それまで各機能ごとに壁で仕切られていた造りをやめ、機能を超えて空間を連続させることでモダニズム空間は誕生するが、その第一歩を画したのがライトで、階段、暖炉などからなる家の中核部から部屋を横長に伸ばすことで空間の連続性を先駆的に獲得しているが、そのとき、なぜ半階ズラシは多用されたのか。
なぜ、と問うのは、ライトの影響で空間の連続性に目覚め、空間の連続性を確立するバウハウスのグロピウスやミースが、決して半階ズラシなど取り入れず、同一レベルの階の平面上だけで連続性を実現しているからだ。
なのになぜ先駆者のライトとその弟子の土浦は、半階ズラシによる空間の相互貫入などという利用上は段差だらけで不便な構成を好んで試みたのか。空間の連続性という自ら求めた大筋のなかで何をやりたかったのか。
この問いは、このたび久しぶりに土浦邸を紹介するにあたり、自らに立てた問いなのだが、たどり着いた答えは、
“垂直方向の空間の連続性”
をねらっていたのではあるまいか。半階ズラシにより、土浦邸の玄関、居間、踊り場的床、寝室というように、空間は水平方向と同時に垂直方向へも連続的に続くことができる。
とすると、新たなる次の問いが派生しよう。ライトの影響、具体的にはライトがドイツで出版した自作集を見て空間の連続性に目覚めたバウハウスの面々は、空間の連続性を発展させ確立する過程で、なぜ垂直方向の連続性はやめ、水平方向の連続性だけに絞ったのか。その代表はミースであり、その代表作は「チューゲンハット邸」(1930)なのだが、答えは今後の課題にしよう。
バウハウスの空間の水平性だけに途中までは付き合いながらやめて、垂直性を加えるべく転じたのがル・コルビュジエだった。
でもコルビュジエはライトや土浦邸のように半階ズラシはとらず、斜路を多用して垂直方向への空間の動き(連続性、流動性)に取り組んでいる。
ライトのもとより帰国した土浦亀城が土浦邸のような四角の箱に大ガラスの作品をつくりはじめると、ライトは土浦にあてて、なぜコルビュジエのようなデザインをお前はするのかと難詰する手紙を書いているし、ミースがアメリカに渡って、初めてライトに会ったとき、リスペクトを込めて丁寧に挨拶すると、ライトは、顔を横に向けて無視したという。ライトは、自分に学びながら自分を超えて進む者にも競争心をむき出しにするほどの前衛魂の持ち主だった。
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土浦亀城Tsuchiura Kameki
つちうら・かめき/明治30(1897)年、水戸に生まれる。東京帝国大学工学部建築学科卒業後、ライトに学び、帰国後、ライトとモダニズムの折衷的デザインを経て、純粋なモダニズムに到達する。日本のモダニズムをバウハウス派とコルビュジエ派に分けるなら、前者の代表者である。平屋の初代土浦邸の後、現土浦邸をつくり、日本における“白い箱に大ガラス”のバウハウス派モダニズム住宅を確立する。健康に恵まれ平成8(1996)年、数え年100歳で長逝されたが、すでに知人も友人も直接の縁者も亡く、藤森が葬儀主催役を務めた。
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藤森照信Fujimori Terunobu
建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。